礼拝メッセージ

信仰の継承/渡邊ミドリ師【NEW!】
II列王記21章1~9節
 善王ヒゼキヤに代わって息子マナセが王位につくと、平和な時代から一転、暗黒の時代に突入します。マナセという名は「苦しみを忘れさせてくれる者」という意味であるにも関わらず、南ユダに苦しみをもたらす邪悪な王となったのです。子どもに信仰を継承するのは非常に難しいと言われています。神が見るのは、家系や親の信仰ではなく、一人ひとりの信仰だからです。親は、子どもを神にお返しすることだけを考え、道を外れないように妥協せず、御言葉によって育てなければなりません。主は、心から信じて従う者を善、不従順な者を悪とみなされます。善悪をはっきりと示すことができるのは神お一人です。マナセは徹底的に主の道から外れ、神殿を汚しました。主は教会にご自分の名を置かれます。私たちの教会も、日々悔い改めて身を聖め、主に従っていく教会となりましょう。
(2018.7.1)

 

あなたの周りには主の光と種がある/渡邊真太郎師
詩篇97篇11節、142篇2~3節
 私たちクリスチャンは世の光です。たとえ闇の中にいるような気持ちになっても、主の光と喜びの種はまかれています。種は、まかれている時には見えません。しかしそれはやがて芽吹き、育ち、花開くのです。疲れている時には、私たちのスピリットにまで疲れが染み込んでいかないように気をつけましょう。スピリットを守るためには、自分を神様に向けることです。八方ふさがりでも、神様はかならず私たちに素晴らしい将来を与えてくださっています。道に迷った時には、その場所を知っている人に道を聞きます。私たちの人生、将来を一番知っているのは神様であり、聖書は道しるべなのです。辛い思いは人ではなく神の元に持っていきましょう。神は私たち一人ひとりを知り(ガラテヤ4:9)、いつも共にいて愛し、必ず解決を与えてくださるのです。
(2018.6.24)

 

忘れてはならないこと/渡邊ミドリ師
申命記11章8~15節、29~32節
 私たちは人生の中で、忘れらないことをいくつか持っています。聖書の中でも、神様が、このことは決して忘れてはならないとおっしゃっていることがあります。イスラエルの民をエジプトから導き出し、紅海とヨルダン川を割られた奇跡がそうです。約束の地に入る時、主はゲリジム山に祝福を、エバル山にのろいを置かせ、御言葉と律法を永遠に忘れてはならないということを命じられます。それは、律法を私たちの心に刻むなら、必ず祝福が与えられるということです。その祝福とは、私たちを強くし、得たいものを所有させてくださるという約束です。そして主は祝福をもたらしてくださると同時に、必ずその地にリバイバルを興してくださいます。自分で計画したものは、それが壊れれば空しくなります。しかし主に従っていく時、私たちは本当の平安と喜びと真実を見つけることができるのです。
(2018.6.17 父の日礼拝)

 

岸辺に立つ/渡邊ミドリ師
詩篇139篇1~6節
 順調な毎日の中で、突然思いもかけない試練がやってくることがあります。そんな時、私たちはどのように対処すれば良いでしょうか。まず、信仰の確信を持つことが大切です。主は、私たちに起こる試練も解決の道もご存知です。自分が神の選びであるということを信じましょう。私たちを創造された主が私たちのことをなおざりにするはずがないのです。主はいつも私たちのすぐそばにいて、私たちの思い、信仰、すべてを知り、守り導いてくださっています。主と顔と顔を合わせ、御言葉に応答していきましょう。人間的な考えでは不可能に見えても、主を信じ、一歩を踏み出すのが信仰です。試練は私たちの受け止め方次第で、信仰の前進飛躍の時ともなり、危機ともなるのです。御言葉に従って行動するなら、主は私たちに不思議な御業を体験させてくださるのです。
(2018.6.10)

 

油断の結果/渡邊ミドリ師
II列王記20章12~21節
 ヒゼキヤ王は信仰によって強国に勝利し、不治の病をも癒されますが、その後、非常に大きな失敗を犯しました。この失敗が国全体の滅亡を招きます。幸せが続く時ほど、油断による過ちに陥りがちなのです。私たちも、洗礼を受けたからといって安穏としているのではなく、御言葉や礼拝を通して霊的な油を蓄え続ける必要があるのです。ヒゼキヤの失敗は、国中の宝をバビロンの使者に披露したことでした。自分の力を誇ってはならないのです。まず主の言葉を聞きましょう。そうすれば、道をそれることはありません。一度失敗すると、主の言葉が聞こえにくくなります。預言者イザヤから主の裁きの宣告を受けても、ヒゼキヤは自分の平安だけを考え、その重大さに気づきませんでした。サタンは天使に偽装し、平穏な生活の中に入り込みます。物事が順調に行っている時こそ、高慢にならないよう注意しましょう。
(2018.6.3)

 

あとに戻った影/渡邊ミドリ師
II列王記20章1~11節
 善王ヒゼキヤは、国に平和が訪れた矢先、病になり死を宣告されます。私たちも突然、死ぬと告げられたらどう受け止め、何を優先するでしょうか。ヒゼキヤは、まず自分の霊肉を支配する主に祈りました。自分が精一杯まことを尽くしたことを訴え、大声で泣いて主にすがったのです。祈りなくしては何の解決もありません。主は即座に祈りを聞かれ、病を癒し、十五年寿命を延ばしてくださると約束されました。そして、確証を求めたヒゼキヤに、しるしとして日時計の影を戻すという奇跡を見せてくださいました。この日時計のように、私たちが無駄にした時、失ってしまった時は主によって贖われるのです。病は時に、神がその臨在、あわれみ、恵みを豊かに示され、私たちの信仰がさらに増し加えられ、残りの生涯を主に捧げることを自覚するための機会となります。問題がある時こそ、自分の信仰をしっかりと確認しましょう。
(2018.5.27)

 

契約の箱に従う/渡邊ミドリ師
ヨシュア3章1~11節
 ヨシュアとイスラエルの民は、ヨルダンの岸辺に立っていました。彼らは、契約の箱を先頭に、900mという大きな距離を開け、ただ契約の箱だけを見て進むよう命じられます。これは、神の導きに従って進むということです。行く先は民にはわかりません。民に求められたのは、ただひたすらに、従って進むことだけなのです。御言葉に従って歩むということは、自分の都合のいいように解釈をすることではなく、疑うことなくただ従っていくという、純粋で単純な信仰を持つことです。そのような信仰を与えられるために必要なことは、身を聖めることです。それは、主の民に相応しくない、霊の妨げになるすべてのものから自分自身を切り離すことです。そうした時、主は奇跡を起こしてくださるのです。私たちも今、同じように溢れる水際に立たされています。一人ひとりが、それを渡り切る信仰を持ちましょう。
(2018.5.20 ペンテコステ礼拝)

 

母の信仰/渡邊ミドリ師
ルカ2章41~51節
 ここでは、主イエスの父母、ヨセフとマリアの家庭を模範として学びたいと思います。彼らは裕福でなくとも、毎年礼拝のためナザレから100kmのエルサレムに上りました。信仰の姿勢を示すということは非常に大切なことです。帰路で少年イエスがいないことに気づいた時、非常に動転する様は、私たちと同じ親の姿ですが、イエスが見つかると、マリヤは頭ごなしに叱ることなく、イエスが何を言うかにじっと耳を傾けます。そしてこれを心に留めたのです。十戒は四戒までは神に関するものですが、人に関する戒律の最初である五戒は、父母をうやまえという教えです。親が正しいことを教育できれば、子はその後に続く戒律を犯す者にはなりません。神はご自身に似せ、親と子の関係と同じように人を創られました。私たちも家庭を作る時には、そのように愛し慈しみ、礼拝することを教えて行くのです。そうすれば、子は勝利していくことができるのです。
(2018.5.13 母の日礼拝)

 

悔いなく生きるために/渡邊ミドリ師
創世記13章14~18節、箴言2章1~5節
 この箇所は、みもみ教会に33年前に与えられた御言葉です。御言葉を受け入れ、目を上げて、北、南、東、西を歩き、たどり着いた地が実籾だったのです。まず、目を上げましょう。耳を傾けましょう。サタンの囁きに耳を貸さず、神の御声を聞くのです。神の命令をないがしろにしてはなりません。御言葉にそのまま聞き従うなら、神は私たちを英知に導き、深い真理に到達させてくださるのです。試練に直面した時は、神に叫び求めましょう。神は過保護にはされませんから、なかなか解決が来ないこともあるかもしれません。しかしそれでも神に顔を向け続け、信仰を持ち続けるなら、必ずそれに応え、勝利を与え、すべてを益としてくださるのです。身を聖めましょう。主は不思議な御業を成してくださいます。その時、私たちは本当の信仰を持つことができるのです。主がしてくださったことを何一つ忘れてはなりません。
(2018.5.6)

 

伝道の十段階/荘 明義師
マタイ5章44節、使徒7章57~60節
 伝道は、通り一遍の方法ではなく、神の知恵をいただきながら一人ひとりに合わせて行う必要があります。迫害・反対する人に対しては、あきらめず祈りをもって時を待つことです。今の救いがないような状態を見てあきらめるのではなく、可能性を見ましょう。反対もしないけれど賛同もしない人に対しては、いきなり伝道せず、まず友だちになり、交流を深めることです。既にキリスト教に興味がある、信じたいという人には、まず黙って相手の話を聞き、必要を知り、どのように伝えればいいかを考えることが重要です。心を開いてくれたら、ぜひ教会に誘ってみましょう。無事洗礼を受けた後も、祈りと支え、励ましが必要です。人間の計画には限界がありますが、神に聞き従うことにより、道を開いていただくことができます。言葉だけで伝えるのではなく、生活、思いやり、愛など、様々なことで神を表現し、福音を伝えることを使命、喜びとしましょう。
(2018.4.22)

 

主が私を尊いと認めているのだから/渡邊真太郎師
エゼキエル22章18~20節、ルカ22章41~44節
 私たちは主に、御子のいのちという莫大なコストをかけるに相応しい存在であると認められています。ですから自分自身を、主が思われているのと同じように見る必要があります。私たちの価値を壊すサタンの声を退け、御言葉によって自分の価値を高めてください。主は試練を通して私たちを精錬し、純度を高めてくださいます。試練は私たちを輝かせるプロセスなのです。自分の中に弱さを感じても、状況が良くなくても、主はその御力を現せる方です。それを告白し確信することが信仰なのです。イエス様でさえ、試練に打ち勝つ強さを持ちきれないと思われたことがありました。しかしその目を苦難や内なる弱さに向けず、主がこんな状況を通しても素晴らしいことを成されるということに注目されました(ルカ22:41~44)。辛い状況に置かれたことにも自分の使命があるのだということを確信してください。主の御力は、弱さのうちにこそ完全に現されるのです(IIコリント12:9)。
(2018.4.15)

 

悩みの日のいと高き助け/渡邊ミドリ師
II列王記19章1~19節
 善王ヒゼキヤは、国が大災難にあった時、どのように解決を得たのでしょうか。彼はまず、預言者イザヤにとりなしの祈りを求めました。問題が起こった時には、最も信頼できる信仰の人、牧師などにとりなしてもらうことが非常に大切です。勝利のために成すべきことは祈りです。そして、問題を恐れないことです。ただ祈り、主を呪わせようとするサタンに屈することなく信仰と愛を示していくなら、主は必ず祝福してくださいます。主は私たちの信仰を確かなものとするためにチャレンジを与えられますが、解決しない問題は決して与えられません。ヒゼキヤのように、個人的に主と向き合い、主に、御耳を傾け御目を開いてくださるよう願いましょう(14~16)。ヒゼキヤは問題の解決を通して全世界に主の栄光が現されることを願い求めました(19)。本物の信仰は、自分のことばかりでなく、主の御心である世界宣教を願うのです。
(2018.4.8)

 

復活/渡邊ミドリ師
Iコリント15章13~14節、35~45節
 人が最も怖れるものは死です。神は人を死ぬものとしては創られませんでしたが、アダムとエバが禁じられた善悪の知識の木の実を食べたことにより、どんな人でも必ず死ななければならなくなったのです。しかし主イエスは、十字架の死から三日目に甦えられたことにより、死に勝利されました。主イエスの十字架と復活を信じた者は、御霊に属する者とされます。そして復活のいのちをいただき、死んだ後も、今なお生きておられる主イエスと同じようなお取り扱いを受けることができるのです。すなわち、新しい朽ちない身体となって、神の栄光の前に相応しい者とされるのです。復活後の主イエスは食事をされ、肉や骨をお持ちでありながら、閉じた戸を通ることもできました。あの栄光のからだと同じものが私たちにも与えられるのです。死さえも喜びへと変えてくださった主イエスの復活に、心から感謝しましょう。
(2018.4.1 復活祭)

 

十字架のいやし/渡邊ミドリ師
Iペテロ2章22~25節
 聖書の中でとりわけ重要な教えは、十字架と復活です。主イエスはご自分を捧げて人類の罪を負われました。主イエスの十字架を信じるということは、罪から離れ、義のために生きていくということなのです。そのためには日々聖めを願い求め、主に助けていただきましょう。また、主イエスは十字架により、魂の癒しと肉体の癒しを成し遂げられました。主イエスの心身霊肉の凄惨な痛み苦しみに対し、天は人類救済のご計画のために沈黙しました。その絶望的な時から三日目に、死を克服して勝利し甦えられたことにより、最も大きな救いと癒しが与えられ、主イエスは神であることが証明されたのです。天国の主イエスの身体には、救いのしるしである釘跡はありますが、それ以外のあらゆる傷跡はありません。主イエスこそ私たちの主治医なのです。完全な癒しは主から来るのだということを確信しましょう。
(2018.3.25 受難週)

 

それぞれの能力に応じて/渡邊ミドリ師
マタイ25章14~30節
 この有名なタラントのたとえ話で、主人はしもべたちに何を求めていたのでしょうか。第一に忠実さです。賜物は皆、同じではありません。不平を言わず、いただいたものに感謝することが大切なのです。第二に、与えられたものを十分に活かすということです。主人は与えた以上のものを求めませんでした。5タラントの人にも2タラントの人にも、褒め言葉と祝福はまったく同じだったのです。1タラントの人は、主人に対する認識を誤りました。1タラントには、6千日分の賃金に当たる、大変な価値があります。それを授けられたという素晴らしい恵みに気づかず、これしかくれないという不満、他との比較による負い目引け目を感じたのかもしれません。神が私たちに求めているのは、わずかなものに忠実であることです。私たちがいただいた賜物を忠実に用いた時、神に栄光を帰することができたという感動と喜びを味わうことができるのです。
(2018.3.18 新会堂6周年記念礼拝)

 

沈黙/渡邊ミドリ師
II列王記18章25~37節
 多くの金銀を巻き上げて退却したアッシリヤは、再び大軍を率いてエルサレムを包囲します。脅しをかけてくるような人間に弱みを見せ言いなりになると、必ずそれは繰り返され、さらに悪い状況を招きます。現代に生きる私たちも、時代や人の意見に迎合し、霊的に妥協してはならないのです。悪しき求めに屈しないためには、主の民が互いに互いを信頼し、問題に対して団結して立ち向かうことです。アッシリヤ王の使者ラブ・シャケは、民の前でヒゼキヤ王に対して悪口雑言を浴びせ、降伏を迫ります。その時、民は沈黙し、主の言葉と指導者の言葉に従いました。沈黙は最上の分別であり、雄弁に勝ります。主イエスも十字架にかかられる時、どんなにののしられ嘲笑されても何も語られませんでした。サタンに耳を貸したエバのように、悪しき者と会話をしてはなりません。時には沈黙こそが懸命な選択であり、勝利への道となるのです。
(2018.3.11)

 

神の御力か、自分の力か/渡邊ミドリ師
II列王記18章13~25節
 ヒゼキヤは偶像を破壊し宗教改革を成し遂げた善王でしたが、アッシリヤが最初に攻め入った時には人間的な弱さを見せ、すべての要求をのんで多量の金銀を渡してしまいます。悪しき者の求めには、決して応じてはなりません。ヒゼキヤはその失敗を悔いて奮い立ち、次の戦いに備えました(歴代史32)。神は悔い改める者を必ず赦し、新しい知恵を与えてくださるのです。再び攻めて来たアッシリア王の使者ラブ・シャケは「いったいお前は何により頼んでいるのか」と言って民の前でヒゼキアを嘲笑します。しかし民はヒゼキヤの指導に従い、ののしりの言葉に惑わされず黙っていました(36)。どんな時も、悪口雑言に屈してはなりません。私たちを勝利させるものは神の御言葉しかないのです。私たちはどんなことがあっても静かに主の御言葉の前に立って答えをいただき、それに従って行動できるようにしましょう。
(2018.3.4)

 

滅びと改革(リバイバル)/渡邊ミドリ師
II列王記18章1~12節
 北イスラエルがアッシリヤによって滅亡した時、南ユダではヒゼキヤが王となり、彼によって宗教改革、信仰復興が成されました。ヒゼキヤ王の信仰は、ユダの王たちの中で最も良かったといわれています。彼は主に信頼して間違ったことになびかず、命令を守りました。これこそが、主に求められることなのです。神はそれぞれの信仰を評価されます。神に評価していただける信仰を持ちましょう。ヒゼキヤの行ったリバイバルは教会の手本となります。リバイバルが興るためには、必ず勝利があるということを確信することです。神の御心を行う時は、たとえ反対者があっても揺るぐことなく、神とその御言葉にしっかりと従い続けましょう。人生の終わりは滅びか救いしかありません。対照的な南北イスラエルに学び、同じクリスチャンでも明暗を分けることのないよう一人ひとりが気を引き締めましょう。
(2018.2.25)

 

身についてしまったものを変える/渡邊ミドリ師
II列王記17章33~41節
 アッシリヤ王がサマリヤに連れてきて住まわせた人々は、様々な偶像を持ち込みました。主は繰り返し、他の神々を恐れてはならない、主だけを恐れよと言われましたが、彼らは真に畏怖することなく、獅子による主の罰(25節)を恐れただけでした。そして唯一の神を、異教の神々のうちの一つとして拝んだのです。クリスマスを祝い、初詣に行き、節分をする現在の日本人の宗教観も、彼らとまったく同じです。信仰というものを勘違いしてはなりません。このような御言葉から外れた状態に陥らないためには、この世と妥協しないことです。イスラエルの民が繰り返し罪を犯したのも、簡単に妥協したからです。妥協は悪魔からくるものです。御言葉から外れるということは、偶像に心を開いているのと同じなのです。唯一の主の、素晴らしい力と聖い御腕に日々支えられていることに感謝し、主の命令と掟と定めとを守り行う者となりましょう。
(2018.2.18)

 

この場所で心の健康診断/渡邊真太郎師
マラキ1章6~7節
 私たちは身体や心だけでなく、霊的な健康状態にも敏感になる必要があります。一番霊的な状態をチェックできるのは礼拝です。もし礼拝に義務感を覚えているとしたら、霊的に風邪をひいているのです。礼拝に来る前に起きる大変な出来事と、礼拝そのものの素晴らしさとは無関係だということを忘れないでください。礼拝をおろそかにし、主から離れれば離れるほど、霊的状態は悪化します。霊的健康診断を怠った最悪の状態は、神を疑い、神を捨てる決断をすることです。今まで主が導き助けてくださったことを忘れないでください。絶望の時こそ、完璧な医師である主を求め、癒していただく必要があるのです。サタンの目的は、私たちに神を呪わせ、神との関係を裂くことです。どんな試練の時にも、神を疑う者、呪う者には決してなってはなりません。礼拝の場で神に触れていただき、神に対する疑いをすべて捨て、それを御恵みと置き換えましょう。
(2018.2.11)

 

聖なることにこだわる人/渡邊ミドリ師
II列王記17章24~43節
 私たちは聖いものよりも罪のほうに簡単になびいてしまいがちです。今の世も列王記の時代と変わらず、私たちを惑わすものが蔓延しています。そのような中で、断固として神の道を守り通す者となることが大切です。悪しき慣習を変えることは困難ですが、聖なることにこだわる者たちはそれに勝利することができるのです。聖なることにこだわるとは、間違ったことに決して適応しないことです。便利なこと、利潤を生むものの背後には悪しきものの策略が隠れていることが多々あります。サマリアに移住した異邦人たちの間違いは、祭司から唯一の神について学んでいながら、同時に自分たちの神々を礼拝することをやめなかったことです。偶像の背後には悪霊がいます。私たちはいかなる時にも、毅然として偶像をはねつけましょう。聖なるものにこだわる姿勢こそ、祝福への道なのです。
(2018.2.4)

 

立ち返る/渡邊ミドリ師
II列王記17章13~23節
 神の民イスラエルは、出エジプトをはじめとする大きな救いの奇跡に預ったにも関わらず、それらをすっかり忘れ、幾度となく与えられた警告にも耳を貸さず、神ではなく人に頼りました。神に裁かれる大きな要因の一つは、御言葉を軽んじることです。信仰的に成長する人とそうでない人の違いは、警告に耳を傾けるかどうかなのです。掟と定めと命令を守り行えば、神は私たちを愛し、祝福してくださいます。それは難しいことではく、大きな負担を強いられているわけでもないのです。罪の伝染力を軽んじてはなりません。裁かれた北イスラエルの罪は、南ユダにも蔓延していきました。ほんの小さな罪に鈍感になることが、滅びへと繋がっていくのです。自分で気づいていない罪をも主に示していただき、隅々まで聖めていただきましょう。
(2018.1.28)

 

本心に返る/渡邊ミドリ師
II列王記17章1~12節
 イスラエルは選びの民であり多くの奇跡を体験してきたにも関わらず、不信仰の罪を繰り返します。この箇所から教えられる真理の一つは、主を恐れず人に頼るなら失望するということです。大国アッシリヤの属国から脱却するため、北イスラエルはもう一つの大国であるエジプトに頼ります。しかし、彼らがアッシリヤの捕囚とされた時、エジプトは一切助けてはくれませんでした。人間の約束はまったく意味を成さないのです。第二に、偶像に気をつけなければならないということです。偶像とは異教の神々ばかりではありません。神でないものに目を向け流されてしまうならそれは偶像と成りうるのです。自分は間違ったことをしていないと思うことこそ一番の間違いです。本当の悔い改めがなければ本当の解決はありません。現在もイスラエルに罪を犯させたサタンの誘惑は働いているのです。私たちも同じ失敗を繰り返さないように身を引き締めましょう。
(2018.1.21)

 

主のしもべ/渡邊ミドリ師
ヨシュア記1章1~11節
 イスラエルの指導者モーセの死後、後継者となったヨシュアは、民と共に約束の地を獲得するという使命を神からいただきました。それは私たち、そして現在のすべての教会に与えられている使命でもあります。そのために必要なのは、主のしもべとなることです。この書の中で「主のしもべ」という言葉はモーセにのみ使われ、ヨシュアは「モーセの従者」と言われていました。しかしその人生を閉じた時、初めてヨシュアは「主のしもべ」と記されたのでした(24:29)。広大な地を獲得するためには、命令とおきてと定めを守り行う必要があります。主が御心のうちに立てられたご計画に従って生きていくことが大切なのです。神は何度もヨシュアを励まします。まことの勇気は人間の中から出るものではなく、神が味方であることから来るのです。私たちも神の勇者として、御言葉を先頭にして眼前に立ちはだかる川を渡り、主の成し遂げられる御業を見届けましょう。
(2018.1.14)

 

行くべき道を知る/渡邊ミドリ師
ヨシュア記3章5,11,17節
 私たちは人生のうち何度となく、どの道を選べばいいか迷います。しかし、私たちの行くべき道を決めるのは主なのです。紅海が二つに割れたエジプト脱出の奇跡の40年後、モーセの後継者ヨシュアは、民を率いて約束の地に向かう進路を再びヨルダン川に阻まれます。彼は、主の臨在のしるしである契約の箱を先頭に見ながら、民にその後ろを進ませました。私たちも、先導者である主イエスから目を離さず、御足の後をついていくだけでいいのです。そのためには、まず身を聖めることです。日々悔い改め、自分の罪から切り離されて、聖化していただきましょう。紅海の時には、主が直接介入して海を割りましたが、ヨルダン川は、彼らが信仰によって川に足を踏み入れたことで割れたのです。ヨシュアは既に神に勝利を与えられているという確信を持っていました。私たちにもサタンによる敗北はありえません。勝利の御旗は私たちの前にあるのです。
(2018.1.7)

 

もう少しだけ感謝をする/渡邊真太郎師
IIコリント4章16~18節、ローマ8章28~34節
 まことの神を知るということは、本当に素晴らしいことです。自分が設定した限界が取り払われ、人生の見解が、今よりももっと大きな範囲まで広げられるのです。目の前の出来事を見ると、それで人生がすべて決まったかのように見えます。しかし、今起きている事実に目を留めるのではなく、その事実の背後に働く主を見ましょう。私たちは嫌なことが起こると、主イエスが私たちのために莫大な犠牲を払ってくださったことをつい忘れがちです。主は絶対に味方であり、良いことしかなさいません。つらいことも、すべて良いことに至るために起きているのです。主は私たちを決して見捨てず、多くの恵みを与えてくださっています。ささいなことでも、自分が願っているよりも多くを与えられていることがあるはずです。それを忘れず、もう少しだけ、今よりも感謝をしましょう。
(2018.1.1 新年礼拝)

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