礼拝メッセージ

再会の喜び/渡邊ミドリ師

マタイ28章1~10節

 主イエスの復活の最初の目撃者は、十字架の下で主イエスの最期をずっと見守っていた女たちでした。彼女たちに御使いが語ったことは、私たちへの言葉でもあります。一つは、恐れてはならないということです。主イエスは既に蘇りについて語られており、彼女たちはそれを聞いて知っていたはずです。空(から)の墓こそ、復活の証明だったのです。二つ目は、行って伝えなさい、ということです。人類史上あり得なかった、喜ばしい、素晴らしい奇蹟である復活を伝えることこそ、私たちの成すべきことなのです。そして女たちは主イエスと再会します。主もまた「恐れてはなりません」と言われます。それはインマヌエルと同じ意味です。私はいつもあなたと共にいる、だから恐れることはないと仰っているのです。死は終わりではなく、新しいスタートラインに立つということなのです。私たちも、主がいつも共にいてくださるという思いを持って生きましょう。

(2024.3.31 復活祭)

 

その時が来ました/渡邊ミドリ師

ヨハネ12章20~36節

 主イエスはここで、人の子が栄光を受けるその時が来たと言われました。ギリシヤ人が訪ねてきたことで、選民イスラエルのためだけではなく異邦人、全世界の人に救いを与える十字架の時が来たことが示されたのです。主イエスの十字架の死がなければ全人類の救いは成りません。それは避けられない神のご計画なのです(創3:15)。何事にも動じないイエス様が心を騒がせているのは、恐れているからではありません。死は人間に罪をもたらしたサタンによるものです。神の御怒りと呪いが、主イエスお一人に転嫁され、罪人として御父と断絶することになります。それが一番の苦しみだったのです。その心の騒ぎを治めるため、主イエスは神に祈られました。神の御声が聞こえても、群衆はそのことを理解できませんでした。サタンは主イエスが救い主であることを気づかせまいとします。私たちは御言葉を聞いたらそれを信じ、光の子として歩みましょう。

(2024.3.24)

 

神に選ばれた人として/渡邊ミドリ師

コロサイ3章12~17節

 パウロはかつて自分の知恵や知識、信仰が正しいと確信していましたが、復活の主イエスに打たれ、間違いを知り改心します。それは一方的な神の愛による選びでした。パウロはクリスチャンを「神に選ばれた者」と言っています。私たちには、選ばれた者としての責務があるのです。教会運営の中で、信仰の一致のためには、日々神によって矯正されていることを知る必要があります。主はご自分が創られた人間を、ご自分のものとして受け入れておられます。私たちには原罪がありますが、主イエスを信じた時、御霊が内住し、その臨在の中で覚醒していきます。造り主の形に似せられ、ますます新しくされていくのです。御霊が内住した人は、周囲に調和をもたらします。愛はすべてを結ぶ完全な帯です(14)。「結ぶ」とはギリシャ語でボンドです。神と人、人と人との関係を接着剤のように結びます。キリストの平和が、私たちの心を支配するよう求めましょう。

(2024.3.17)

 

過去より今でしょ!/渡辺真太郎師

I歴代誌9章19~29節

 ここに登場する者たちは、大きな裁きを受け滅ぼされた反逆者コラの子孫でした(民数16)。彼らが聖所で用いられているのは、神が過去ではなく彼らの心をご覧になり、お認めになったからです。神は奉仕をする者を聖め選び、訓練してくださるのです。あらゆる事柄から学ぶ柔らかい心を持ちましょう。彼らの働きは、目立つものではありません。しかし奉仕は主に近づいていく手段です。上手くいかない時は、主が私たちを祝福の器とするため研ぎ澄まそうとしてくださっているのです。そこから学ぼうとする人は、人生に大きな違いが出てきます。できないと言わず、どうやったらできるかを考え、学び、前に進みましょう。どんな小さなことにも全力を注ぎましょう。それは時として大きな労力を要します。忠実さが試され求められているのです。誰も見ていなくても、主がご覧になっています。忠実さは将来の土台となり、主はそれを広げようとされています。そしてその上に祝福を積み上げてくださるのです。

(2024.3.10)

 

パーム・サンデイ 棕櫚の日曜日/渡邊ミドリ師

ヨハネ12章12~19節

 エルサレムに向かうイエス様を、大群衆が喜び賛美して出迎えました。彼らはラザロの奇蹟を見たり話を聞いたりし、この人こそ救い主かもしれないと思っていたのです。しかし、ローマの圧制に虐げられる苦しみからの解放者として見ている人もいました。彼らの信仰は、イスラエルの王としてのメシヤ預言に基づいていました。「ホサナ」とは、今私たちを救ってください、という意味です。彼らは本当に短い間に、イエス様を十字架につけろと叫ぶ者となりました。信仰によるのではなく、一時的に惹かれただけだったのです。華々しく活躍する人にすぐ期待してしまう人は、物事を見誤りやすいのです。この世においては、絡みつく罪の結果、通らなければならない問題が数多くあります。しかし、それに必ず勝利するのが主イエスの救いなのです。本当の意味でホサナと賛美する者となりましょう。

(2024.3.3)

 

本当の正義と偽りの正義/渡邊ミドリ師

ヨハネ12章1~11節

 ここにはベタニヤのマリヤに見る本当の正義と、ユダの偽りの正義との対称があります。マリヤが注いだ香油は、当時の一年分の収入と同じくらい高価なものでした。マリヤはいつもイエス様の話をじっと聞き、十字架の死と復活について知っていたのです。実際のラザロの蘇りを通して、イエス様の語られていることを悟り、確信したのでしょう。そしてイエス様以外にこの香油を必要とする方はいないとわかっていました。イエス様への愛が、最高のものを捧げたいという思いとなったのです。ユダの言葉は一見正しいことのように聞こえますが、その裏には不正な思いがありました。今日のクリスチャンの中にもそのような人はいます。私たちも、偽りの正義に惑わされることが非常に多いのです。しかし、御言葉が私たちに内住していれば、偽りを見抜く力が与えられます。御言葉を信じたなら、ただ聞くだけではなく、マリヤのように実践する者となりましょう。

(2024.2.25)

 

神に敵対する者/渡邊ミドリ師

ヨハネ11章45~57節

 ラザロの病・死と復活により、涙と絶望が笑顔と喜びに変えられました。しかし人々は、奇蹟を見て主イエスを信じる者と、憎しみをますます募らせ主イエス殺害にまで向かう者とに分かれました。これはこの時代の話だけではありません。なぜ人はこのように二分されてしまうのでしょうか。奇蹟を見ても信じられない人はいます。出エジプトの民は、紅海が割れるほどの奇蹟を見ても、すぐにそれを忘れ偶像を造りました。ツァラアトに冒された10人の人の中で、主イエスの癒しに感謝し戻って来たのはただ1人だけでした(ルカ17:11~19)。奇蹟は、信仰を持つためのものではありません。信仰には、奇蹟以上のものがあるのです。大祭司カヤパは、全人類の罪のために死なれる主イエスについて、無自覚に預言しました。神は、相応しくない者を通してさえ語られるのです。信仰者だけに働かれる神ではない、ということに希望を持ちましょう。

(2024.2.18)

 

ラザロのよみがえり/渡邊ミドリ師

ヨハネ11章30~44節

 ここには人の子として神のご計画に従うため遣わされたイエス様と、神の子として御業を成すために来られたイエス様の姿がともに現れています。イエス様が霊の憤りを感じ、心の動揺を覚えられ、涙を流されたのは何故でしょうか。それは、目の前の者たちではなく、死の問題と向き合っておられたからです。私たちのうちに罪が入った時、この世に死が入り、私たちは死ぬ者となりました。人類は死による悲しみを背負い続け、それは再臨まで繰り返されます。主イエスは、愛する人を失う悲しみ、背後にいる悪しき霊に対しての憤りを感じられたのです。イエス様は十字架によって死を滅ぼし、よみがえりのいのちとなって復活されました。大声で叫ばれたイエス様の御声には、サタンを退ける力がありました。イエス様はその御業を通して、人々が神の栄光を見ることができるようにされたのです。私たちも、復活のいのちをいただいていることに感謝しましょう。

(2024.2.11)

 

復活の生命──このことを信じますか/渡邊ミドリ師

ヨハネ11章17~29節

 人間が不従順の罪を犯したことによってこの世に死が入り、神と断絶しました。復活とは、人生最大の敵・死に勝利したということなのです。イエス様はマルタが復活について正しい理解を持つよう導かれました。マルタの信仰は素晴らしく、イエス様が兄弟ラザロの病を必ず癒してくださると確信していました。しかし、死後4日後に来られたイエス様を出迎えた彼女には、もっと早く来てほしかったという思いと信仰心がせめぎ合っています。イエス様はマルタに、ラザロはよみがえると告げられました。マルタは終わりの日のよみがえりのことだと思いますが、イエス様はラザロが「いま」よみがえることを信じるかと重ねて聞かれます。それに対しマルタは、はいと言い、主イエスが世に来られる神の御子であることを宣言したのです。これこそ本当の信仰告白です。私たちも、たとえ絶望的に見える状況にあってもこのような信仰告白ができる者となりましょう。

(2024.2.4)

 

病気と死 十字架と復活──神の栄光があきらかになるために/渡邊ミドリ師

ヨハネ11章1~16節

 ベタニヤのマルタ、マリヤ、ラザロの家は、主イエスがこの世においてほっとするひとときを過ごせた場所でした。しかし、ご自分の愛する者、ラザロが重い病気になった時、すぐにでも癒すことができたにも関わらず、なかなか彼らの元に行かれませんでした。主はラザロの死を予告され、これは死で終わるものではなく、神の栄光のため、それによって御子が栄光を受けるためのものであると仰いました。ラザロの死と復活を通して、ご自分の十字架の道を示されたのです。主イエスが本当に神の栄光を受けたのは十字架でした。私たちも、クリスチャンであると言う時、十字架の救いと喜びを伝えなければなりません。また、イエス様が何度も殺されそうになったの見ていた弟子たちは、エルサレムに行くのを躊躇していました。私たちも正しいことに従うのをためらうことがありますが、どんな状況であっても正しさを選ぶなら、必ず祝福が与えられるのです。

(2024.1.28)

 

迫害下で示される真実/渡邊ミドリ師

ヨハネ10章32~42節

 神の愛を知る者は神を語らずにはいられなくなりますが、語れば語るほど迫害は強まります。ですが、主イエスは迫害にあえばあうほど語り続け、真理を現されました。そこから教えられることは、まず御言葉に立つということです。主イエスは、ユダヤ人からの「神を冒涜している」という攻撃に対し、御言葉を引用して反論しました。傲慢な者に対しても怒らず、なお彼らが真理に目覚めるよう諭したのです。ユダヤ人たちは、主イエスが行った癒しなどの良いわざを目撃していても信じようとしませんでした。神を罵る者は罪責を負うという、彼らが主張する律法は、神の子を迫害する彼ら自身を罪に定めていたのですが、霊的に無知な者たちはそれに気づきませんでした。彼らはますます頑なになり、真理から離れて行ったのです。私たちが御言葉に立ち、真理を語り続けるなら、神はあらゆる攻撃を乗り越える力を与え、御翼の内に保護してくださるのです。

(2024.1.21)

 

信じる人と信じない人/渡邊ミドリ師

ヨハネ10章22~31節

 主イエスがご自分は救い主であるということを明らかにし始めると、ユダヤ人たちは憎しみ・怒りを募らせました。彼らはまったく信仰をもっていなかったわけではなく、むしろ律法を守っていたにも関わらずです。主イエスを信じない人は、律法主義に陥り、偏った神観を持ち、十字架の死、復活、永遠のいのちなどを受け入れることができないのです。主は彼らを「神の国に属さない」と言われました。神から出た者は神の言葉に聞き従うからです。私たちは、信じる者とならなければなりません。信じる者は、主とお互いによく知る関係を持っています。主イエスは、ご自分は父なる神と一つであると言われました。そして私たちも主イエスと一つであり、その関係の中に入れてくださっているのです。主イエスの父なる神への信頼と同じように、私たちも主を信頼し、その素晴らしい特権、約束として与えられた永遠のいのちを感謝しましょう。

(2024.1.14)

 

確信する/渡邊ミドリ師

Iヨハネ5章13~15節

 様々な災いが続き、いつ何時、何が起こるかわからない世にあって、私たちはいつも信仰の備えをしておく必要があります。ヨハネがこの手紙を書いたのは、クリスチャンとして理解してもらいたいことがあるからです。それは、私たちが永遠のいのちを「持っている」ということです。死んだら与えられるのではなく、既に持っているのです。そして、御心にかなう願いを神は聞いてくださるという「確信」を持つことが大切であるということです。神は私たちの人生のすべてをご計画されています。そして私たちが祈る時、既に答えを持っておられます。だから確実に聞かれるのです。「かなえられる」というギリシャ語(エコメン)は、「持っている」という意味でもあります。この新しい年に、教会が、私たち一人ひとりが、成すべきことを求め、確信を持って祈り続けていくことが大切なのです。

(2024.1.7)

 

主のみ言葉に生きる祝福の道/宋ダニエル師

申命記4章1~10節

 ここでは、カナンの地に入るにあたり、どのように生活しなければならないかが記されています。これは新しい年をどのように迎えるかの教えともなります。まず、カナンの地に入って行き所有しなさい、すなわち「行動しなさい」と命じられています。祈りも勿論大切ですが、神の宣教は、私たちの行い・参加によって成ります。教会の中に留まらず、出て行って伝道する時、神が働いてくださり、それを体験する恵みと証しをいただくことができるのです。私たちが動く時、神様は用いるために祝福せざるを得ないのです。神は、私たちと共にいてくださいます。そして「土地を所有せよ」という神の契約が成就するのです。偶像は徹底的に排除しなければなりません。他の宗教だけでなく、家族やお金、美しさ、学歴なども偶像になり得ます。神様に頼ってすがる時、大きな祝福が与えられます。その祝福は自分だけでなく、隣人、国、世界へと広がっていくのです。

(2024.1.1 元日礼拝)

 

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