2018年のメッセージ

誰を頼りにしてきましたか/渡邊ミドリ師
詩篇146節1~10節
 詩篇の146~150篇は、ハレルヤで始まりハレルヤで終わります。私たちも、1月1日にはハレルヤで始まり、12月31日にはハレルヤで終わるべきです。それが本当のクリスチャン生活です。ハレルヤは万国共通の賛美です。サタンは賛美には太刀打ちできません。この一年間私たちは、本当に主イエス・キリストだけを頼りにしてきたでしょうか。146篇の作者は、私たちがより頼む方について教えています。それは、天地万物を造られた創造主です。主こそが唯一、安心して頼ることのできる方なのです。主は私たちの日常の中におられます。いつも私たちに親しく近づいてくださっているのです。主は、人をみな役立つ者として創られました。一人として、役立たない者はいないのです。そのことを覚え、主に望みを置き、再臨の時に引き上げられる信仰をもって、来年に向けて歩んで行きましょう。
(2018.12.30)

 

闇から光へ/奥山実師
使徒26章18節
 この箇所には、イエス様がお生まれになった目的が凝縮されています。まず目を開いて、わからなかったことをわからせてくださり、暗やみから光へと移し、サタンの支配にあった私たちを神に立ち返らせてくださいます。イエス様を信じれば罪赦され、天国に入ることができます。そして聖なる者とされた私たちに、御国を受け継がせてくださいます。皆、永遠の王となるのです(黙示22:5)。多くの文学者は、現代人は愛を求めているが愛し得ない、皆エゴイストだという結論に達しました。しかし、愛は神から出ています(Iヨハネ4:7)。神を信じ立ち返るなら、おのずと神から愛がやってきます。だからクリスチャンは愛し得るのです。クリスチャンの夫婦の間には神様が介入し、三つ撚りの糸、切れない糸としてくださいます(伝道4:12)。神の救いと祝福、恵みの大きさは、このようなものなのです。御言葉の通りに生きることは幸いです。
(2018.12.23 クリスマス礼拝)

 

喜びの地となる/渡邊ミドリ師
マラキ3章6~12節
 西暦にもあらわれているように、神はイエス・キリストの誕生を中心に人類の歴史をご計画されました。このマラキ書が終わると、新約聖書に入り、イエス・キリストの誕生となります。その前の準備として、神はまず、いい加減な状態だった御民の信仰を整えられました。彼らが神に立ち返るなら、救い主を遣わして必ず救うというご自身の計画は変わらない、と宣言されたのです。神はクリスチャンを、いつも主にあって喜び楽しむ者としてくださいます。そのために、あえて不信仰な者たちに、捧げることについて教えられました。神はただお金を要求しているのではありません。自分や周囲の人を喜ばせる前に、主を喜ばせる者となるよう求めているのです。惜しむことなく進んで捧げましょう。そうすれば、私たちは幸せ者と呼ばれ、ここが喜びの地となるという神の約束があります(12)。それに期待して、主の御業に励んでいきましょう。
(2018.12.16)

 

主とともに、この場所で生きていく/渡邊真太郎師
エペソ2章10節、ルカ1章17節
 私たちが歴史の中で、この時間・場所に生きているということには意味があります。自分はここにいるべきではない、というのは間違った考えです。サタンはそのような惑わしで、私たちを神の計画から引き離し、神の素晴らしいご計画を壊そうとします。私たちに求められているのは、この場所で、パーフェクトなことではなくベストなことをすることです。私たちはそれぞれが神の最高傑作であり、それぞれに良い目的、使命が備えられているのです。神は結果を求めてプレッシャーをお与えになることはありません。与えられた一日一日に感謝し、最善を尽くして生きることを喜ばれるのです。救いを受け入れ、過去がすべて赦された私たちは、本来神が計画された本当の自分に戻っていきます。あとは主の栄光の輝きを反射させながら、主について行くだけです。いま私たちがここでしていることは、すべて主の目的のための備えなのです。
(2018.12.9)

 

わたしたちの宝/渡邊ミドリ師
Iコリント3章1~9節
 私たちクリスチャンが共通して持っている宝とは何でしょうか。それは主イエス・キリストです。コリント教会の信徒の中には、救われる前と何ら変わらない生き方をしている人がいました。そういう人をパウロは、“肉に属する人”と呼びました。そのような人が教会に混乱・分裂・分派を起こすのです。一方、自分の宝をイエス・キリストとする人は“御霊に属する人”です。肉に属する人には、霊的な話をしても、耳がふさがれており、理解することができません。信仰的に成長するためには、御霊に属することが不可欠なのです。また、大切なのは、クリスチャンとして、神に功績を残すということです。それは有名になるというようなことではありません。神は一人ひとりに必ず賜物を与えています。賜物が自分には無いと言うのは、神への冒涜です。与えられたものを活かし、それぞれの役割に従って、主の栄光のための働きに努めましょう。
(2018.12.2)

 

私たちはキリストの心である/渡邊ミドリ師
Iコリント2章9~16節
 クリスチャンの内には聖霊が内住し、働いてくださいます。私たちが罪に痛みを感じるのは、良心ではなく聖霊が囁いてくださるからです。これはクリスチャンの特権です。パウロは学術的なことに精通していましたが、キリストの救いをこの世の知恵を用いては語りませんでした。目が見たもの、耳が聞いたものでは、神を知ることはできません。御霊の働きのない所にまことの知恵はないのです。御霊は信仰者に真理を啓示します。聖書全体に書かれているすべてのことを、御霊が教えてくださるのです。私たちには一人ひとり、必ず賜物を与えられています。そして御霊が、成すべきことを教えてくださるのです。何を語るべきかを思い悩み、人を恐れる必要はありません。祈り、御言葉を読み、神と向き合い御心を聞きましょう。そうすれば御霊によって霊的な洞察力が与えられ、キリストの心を知ることができるのです。
(2018.11.25)

 

神の知恵とこの世の知恵/渡邊ミドリ師
Iコリント2章1~9節
 私たちは決断を要する時、とかくこの世の知恵、自分の知恵に頼りがちです。しかし、神の知恵にしっかりと立つことによってのみ、真理が見えるのです。神の知恵とは、聖霊を通して明らかにされる奥義から来るものです。最高の教育を受けていた学識豊かなパウロは、伝道するのにこの世の知恵を用いず、ただイエス・キリストの十字架だけを宣べ伝えることが自分の役目であると宣言しました。それが神の知恵だからです。それこそがすべてのものを動かすという確信があったのです。また、他の使徒たちは無学でしたが、主イエスを信じることで、想像をはるかに越える神の知恵と啓示が与えられました。私たちも、神の知恵から来る福音宣教の奥義をいただいています。様々な困難があっても真理に立ち続けるなら、神様は必ず道を開いてくださいます。自分の知恵でなく、御霊と御力により頼みましょう。
(2018.11.18)

 

認識する/渡邊ミドリ師
Iコリント1章18~31節
 コリントの教会の分裂の原因は何でしょうか。ユダヤ人たちは、キリストの救いにしるしを求め、十字架で死んだイエスがキリストであることを認めませんでした。一方ギリシャ人は、知的な救いを求め、非科学的なものを受け入れようとしませんでした。彼らの間違いは、十字架につけられたキリストを信じる者は救われる、ということを認識できなかったことです。分裂は、十字架の救いと神の愛を理解していないところに起こるのです。現在も、多くの教会で分裂が起こっています。賢い人ほど謙遜で、自分の罪とイエス・キリストの十字架の意味を深く知っているものです。そういう人たちの集まりには問題は起こりません。神は自らを誇るような人には目的を与えられないのです。イエス・キリストを誇る者となりましょう。そうすれば、主がご自身の目的を完成させるために、豊かに用いてくださるのです。
(2018.11.11)

 

あってはならない問題/渡邊ミドリ師
Iコリント1章1~17節
 この書全体を通してパウロが語っているのは、教会とそこに属するキリスト者の教会観についてです。私たちにも適用し得る様々な問題について詳細に教えています。まずここでパウロは、近親相姦など、忌まわしいことを行っていた者たちに宛てた手紙にも関わらず、彼らを「神の教会」「聖徒として召され」た人々と呼んでいます。聖徒とは、主イエスにあって聖なる者とされた人のことです。たとえ今は罪がはびこっていても、再臨の時に責められるところのない者として、必ず守り聖めていただくことができると語っているのです。私たちも、聖徒として召されていることを日々自覚する必要があります。また、パウロは彼らに一致を求めました。主に祝福された教会には一致があります。一致がないのは愛がないからです。自分が従う人をそれぞれに選んだり、教会を簡単に変えたりすることは主の御心ではありません。この教えをしっかりと受け止めましょう。
(2018.11.4)

 

歴史を支配する神/渡邊ミドリ師
II列王記25章22~30節
 ダビデの晩年から始まった列王記は、ダビデの家系を継ぐ南王国の滅亡で終わります。神の民である南王国は、度重なる背信の末、ついに滅亡という神の裁きを受けるのです。しかし、歴史を支配する神は、約束を守られます。神は創世記で既に、ユダ部族を選び、その血筋から救い主が誕生することを、ヤコブを通して預言されていました(49:10)。エホヤキン王は、捕らえられてから37年目に、バビロンの王によって釈放され、幸福な日々を送ります。そして彼の孫ゼルバベルが、エルサレムに帰還し、神の宮の基礎を築くのです。神は背いた民を裁かれますが、悔い改める者を必ず回復し、彼らを復興のために用いられるのです。主はどんな時にも、主に仕える働き人を起こされます。御口から出た言葉は必ず実現されると信じ、それに信頼するなら、祝福の約束はことごとく成就されるのです。
(2018.10.28)

 

天の下では何事でも定まった時期がある
─あなたはどこから来てどこへ行くのか─/渡邊ミドリ師
伝道者の書3章1~2(前半)節、ヘブル9章24~28節
 死について、人間の側からはどんなに知恵ある者でも答えを出すことができません。しかし私たちクリスチャンは聖書からはっきり答えを得ることができます。聖書はまず、3つの死について教えています。一つは霊的な死です。神は人を、被造物の中で唯一、神の息を入れられた霊的な存在として創られました。しかし神の御言葉に従わず罪を犯したため、霊的に死ぬ者となったのです。第二の死は、肉体の死です。肉体の死はいのちの終わりではない、と聖書は教えています。肉体は土に帰り、霊と肉体が分離し、霊だけが残るのです。そして生前、主イエスの十字架の救いを信じたかどうかで、霊の行く先は違ってしまうのです。第三の死は、永遠の死です。人は死んで後、さばきを受けることが定まっています。主イエスを信じた者は中間状態であるパラダイスを経て、再臨の時、朽ちない肉体をもって生まれ変わるのです。信じることを拒んだ者はまずハデスに行き、それから永遠の死につきます。主イエスを信じる以外、永遠のいのちを得る条件は何ひとつありません。このことをしっかりと受け止めましょう。
(2018.10.14・21 召天者記念礼拝)

 

取るべき地はまだある/奥山実師
ヨシュア記13章1節
 モーセを助けた若きヨシュアも、老人となりました。しかし主は、まだやるべきことがあると仰せられ、ヨシュアにテーマを与えられます。人は皆、年をとります。未信者は老いるとテーマが無くなります。しかしクリスチャンは、テーマを失うことはありません。他の人を救いたい、病の人のために祈りたい、といった思いがあるからです。テーマがあるということは幸いです。主がヨシュアに、捕るべき地を捕るよう命じられたのは恵みなのです。どうぞ、主ご自身のために、残りの人生を生きてください。
(2018.10.7)

 

絶望感に打ち負かされないために/渡邊真太郎師
 神様は私たちを、新しく作り変えてくださいます。場合によっては、それは辛いことかもしれません。サタンは私たちの感情を用いて攻撃し、揺り動かし、絶望を感じさせようとします。しかしどんなことがあっても、神様から離れることを選ばないでください。たとえ感情が拒否しても、イエス様とその言葉に焦点を合わせ続けましょう。イエス様の荒野の誘惑は、大切な模範です。サタンは感情、欲を揺さぶりましたが、それに対しご自分の考えや意見を言わず、ただ旧約聖書を引用されました(マタイ4:8~10)。御言葉に頼り従うことにより、本当の解決が与えられるということを示されたのです。神様は私たちを絶望したままこの世におかれるような方ではありません。主こそ救い主であり、すべてを良くしてくださるのだと自分に語り続けましょう。主は必ず私たちを絶望から解放し、次の素晴らしいステップを踏ませてくださるのです。
(2018.9.30)

 

逃げてはならない/渡邊ミドリ師
II列王記24章17節~25章21節
 私たちは神様の教えに聞き従う必要があります。ゼデキヤ王は預言者エレミヤの言葉を無視し、自分の心に合ったハナヌヤの言葉を受け入れました。それ故に、目の前で子ども達を虐殺され、目を潰されてバビロンへ捕虜として連行されるという無惨な結果を招いたのです。歴代の悪王たちも皆、御言葉に従わなかったことにより、滅びに至りました。神様は愛であられますが、罪に対して目をつぶられるようなことはありません。私たちも、クリスチャンであり永遠の命をいただいているということに胡坐をかいていてはなりません。主が立てられた、主の器の言葉を信じましょう。神様が遣わした教会、伝道者、牧師などに神様の御心を告げられたら、その言葉を信じ、それに従うのです。たとえ自分にとって耳の痛い言葉であってもそれを受け入れ実行するなら、その時主は、私たちに溢れんばかりの祝福をもたらしてくださるのです。
(2018.9.16)

 

主が与える真の自由/渡邊ミドリ師
II列王記24章8~20節
 クリスチャンになっても、わがままだったり嘘をついたり、未信者と何ら変わらない人たちが多いのは何故でしょうか。それは、主が与える真の自由を知らないからです。真の自由を知らない人は、この世の誘惑にたやすく流されてしまいます。では、真の自由を知るためには、どのようにすれば良いのでしょうか。まず神様の御心を知ることです。エホヤキム、エホヤキンは、父ヨシヤ王の信仰には従わず、御言葉を知りながらもそれを求めませんでした。それが悲惨な結果を招いたのです。御心を知ったなら、それに従いましょう。聞くだけでなく、実践することこそが大切なのです。そうすれば、どんな問題があっても、主イエスが必ず解決をお与えくださいます。私たちが拠り頼むべきなのは、この世の人でも物でもなく、主イエスの御名なのだということを覚えましょう。
(2018.9.9)

 

歴史を支配される主/渡邊ミドリ師
II列王記24章1~7節
 私たちは、喜びと失望を同時に経験することがあります。そんな時、クリスチャンとしてどのように向き合っていけば良いでしょうか。まず、強大な力を恐れず、それに屈しないことです。臆せずクリスチャンであることを宣言し、妥協せずに信仰の道を貫けば、どんな力にも勝利できるのです。神様は、そのようなクリスチャンとしての行為をご覧になってくださいます。御言葉は聞くだけではなく、行わなければならないのです。エホヤキム、エホヤキン両王は共に、御言葉を知りながら、実践しなかったため、南ユダに滅びを招きました。歴史を支配されるのは主なのだということをしっかりと認識しましょう。私たち一人ひとりの歴史も、すべて主の御手の中で動いています。子どもたちに残すべきなのは財産ではなく、どんな力よりも強大な主の御名なのです。
(2018.9.2)

 

委ねる/渡邊ミドリ師
詩篇16篇1~11節
 この美しい箇所は、教会とクリスチャンによる真の信仰告白です。イエス様が共にいてくだされば、私たちもこのような告白をすることが可能なのです。主の臨在を感じることのできる信仰とはどのようなものでしょうか。それは、何でも、どんなことでも、神に委ねることです。主は慈しみと愛の神です。その御翼の陰に身を隠す時、温かい平安に包まれるのです。教会に集まる信徒たち一人ひとりが信仰告白をすることが大切です。神様は忠実な聖徒たちを誇られ、彼らに威厳をもたらされます。クリスチャンは暗い顔をして心配ばかりしているべきではありません。主をいつも前に置いていれば、ゆるぐことはないのです。8~11節の希望に満ちた御言葉は、ペテロもペンテコステの説教の際に引用しました(使徒2:25~28)。この16篇を暗記し、私たちの力としましょう。
(2018.8.26)

 

次世代に伝授する/渡邊ミドリ師
II列王記23章31~37節
 ヨシヤ王の子どもたちは、亡き父の立派な信仰を引き継がず、悲劇の死を遂げます。なぜこのようなことが繰り返されるのでしょうか。人生に最も必要なのは良い指導者です。最も良い指導者とは、聖書です。神の言葉である聖書には聖霊の臨在があり、私たちに神の御心を示してくださいます。聖書を読んではじめて、主と顔と顔を合わせ、御声を聞くことができるのです。そして、御言葉によって善悪を識別できるようになります。ヨシヤ王の宗教改革はたった一代で終わり、息子であるエホアハズ、エルヤキムは共に、主の目の前に悪を行いました。悪の力は強く、この世は終わりの時まではびこります。しかし、私たちを保護するのは主イエスであり、聖書の御言葉です。主イエスの十字架だけが、私たちを悪から解放してくださるのです。
(2018.8.19)

 

神の御旨は変わらない/渡邊ミドリ師
II列王記23章21~30節
 ヨシヤ王は、父祖の悪をまねることなく信仰の道をまっすぐに歩みました。それにも関わらず、なぜ非業の死を遂げたのでしょうか。神の正義とはどのようなものなのでしょうか。神は聖であられ、罪を裁く方なのです。ヨシヤ一人の善行のゆえに、父祖や民の重ねてきた罪が赦されることはないのです。それが成るのは主イエスの十字架だけです。一人ひとりが悔い改め、身を聖めなければなりません。そして、神の怒りは御言葉を聞かない時に下されます。ヨシヤはエジプトの王ネコを討とうとし、逆に殺されます。それは神の御言葉に聞かなかったからでした(II歴代誌35:22)。しかし、非常に良い王であったヨシヤの生きている間、ユダは滅ぼされませんでした。その正しさのゆえに主の憐みを受け、自国の滅亡を見ずに済んだのです。神はその人の人生にいつも関わってくださっています。厳しいように見える時も、主の優しさと憐みは必ず働かれているのです。
(2018.8.12)

 

聖なる人生の回復/渡邊ミドリ師
II列王記23章1~24節
 私たちキリスト者が聖なる人生を送るには、どのような歩み方をすれば良いでしょうか。まず、すべてのことは聖書の御言葉からはじまるという認識をしっかりと持つことです。何かをしようとする時、すべて自分で計画するから失敗するのです。御言葉に聞き従えば、確信を持つことができ、揺るぐことがありません。そのように行うことは必ず成るのです。そして神の前に、自分の罪を処理することです。罪を持ったままでは奇跡を見ることはできません。ヨシヤは悔い改めると即、神殿の中にあった偶像や、民の間に蔓延する不道徳な行為を徹底的に排除しました。罪にはいいかげんな対処をしてはなりません。自分は洗礼を受け、罪赦されているから大丈夫だというのは甘い考えです。子どもが悪い道に流されそうになった時も、主にあって怒るべきであり、甘やかすのは罪なのです。そのような霊的聖めは波のように教会から流れ出て、街全体が聖められるのです。
(2018.8.5)

 

もう少しだけ、人のために/渡邊真太郎師
創世記2章18節、Iテモテ2章4節
 私たちクリスチャンは既に人のために祈り、支えていますが、あともう少しだけ、人のためになることを考えてみましょう。人は誰かのために何かをする時、やりがい、幸せを感じるように出来ています。人生を充実させるためにも、他の人のために何ができるだろうか、という思いを持ち続けましょう。神がこの世を創られ、初めて「良くない」と言われたのは、人がひとりでいることでした(創世記2:18)。私たちの存在の共通の目的は、神の栄光を現すことと、人と共に、人のために生きることなのです。ですから自己中心になることは人生の目的を失うに等しく、結果的にはむなしくなります。他の人の役にたたない人間は一人としていないのです。主が持っておられる人々に対する熱意を忘れないでください。少しずつでも、神の素晴らしさを周囲の人たちに示し、福音の光を輝かせましょう。その時私たちは、真の充実感を得ることができるのです。
(2018.7.29)

 

主のみこころを求めなさい/渡邊ミドリ師
II列王記22章8~20節
 ヨシヤ王は発見された律法の書によって、腐敗し切ったユダが裁かれることを悟り、祭司と重臣に、主の御心を求めるよう命じます。主の御心を求めて行動する時、私たちは何を得られるでしょうか。まず、主が見えます。まるでそこに立っておられるかのように、主のご臨在を感じることができます。そして、自分がこれからすべきことが明確になるのです。ヨシヤは、律法の書が主のご計画によってもたらされたことを知った時、主を見ました。そして、大胆に宗教改革を行ったのです。ヨシヤの案じた通り、ユダには厳しい裁きの宣告が下されましたが、御前にへりくだったヨシヤの願いを主は聞き入れ、裁きを延ばしてくださいます。神の一方的な恵みは、心から悔い改めた謙遜な人にこそ与えられるのです。どんな時でも自分の考えを優先せず、主が自分に何を求めておられるのかを伺いましょう。必ず主はそれに答え、ご自身を現してくださいます。
(2018.7.22)

 

改革/渡邊ミドリ師
II列王記22章1~7節
 ヨシヤが王となったのは、南ユダが多くの悪王によって腐敗し、滅びに向かっている最中でした。彼は後にも先にもここまで主に従った王はないと言われるほどの善王となります。彼はそれまでの王たちが犯した偶像礼拝を徹底的に排除し、宗教改革を行いました。私たちも自分の信仰を、いつも改革しなければなりません。御言葉に立ち返ることです。あらゆる問題の解決は御言葉から来ます。また、すべてのことは神の摂理で起こるということを知りましょう。ヨシヤが行った神殿修復を通して律法の書が発見されたのは、偶然ではありません。主に忠実であろうとしたヨシヤに、神ご自身が律法の書を示されたのです。私たちの人生にも、偶然はないのです。神は信仰の量りに従って、報いを与えてくださいます。信仰をもって主に従って歩めば、主は必ず不思議な御業を見せてくださるのです。
(2018.7.15)

 

美しい痕跡を残した生き方/渡邊ミドリ師
II列王記21章10~26節
 どうすれば私たちは、美しい痕跡を残す生き方ができるのでしょうか。まず、主の御心と違う方向には行かないことです。最悪の王と言われるマナセの最大の罪は、聖くあるべき神殿を偶像で満たしたことです。神を冒涜し、自分だけでなく民にも同じ罪を犯させました。これはマナセだけの罪ではなく、国全体の罪となります。教会も同様に、相応しくない罪があれば、個人だけでなく教会全体が祝福を逃すこともあるのです。全員が悔い改めの心を持つことが大切です。そして、世の力を恐れないことです。大国に囲まれ脅かされていたマナセは、心の弱さから彼らの神々を取り入れました。私たちを誘惑するものは沢山あります。それに対抗する武器は御言葉の剣です。御言葉で養われましょう。たとえ苦しくても、御言葉に従って生きれば、必ず大きな勝利へと至るのです。
(2018.7.8)

 

信仰の継承/渡邊ミドリ師
II列王記21章1~9節
 善王ヒゼキヤに代わって息子マナセが王位につくと、平和な時代から一転、暗黒の時代に突入します。マナセという名は「苦しみを忘れさせてくれる者」という意味であるにも関わらず、南ユダに苦しみをもたらす邪悪な王となったのです。子どもに信仰を継承するのは非常に難しいと言われています。神が見るのは、家系や親の信仰ではなく、一人ひとりの信仰だからです。親は、子どもを神にお返しすることだけを考え、道を外れないように妥協せず、御言葉によって育てなければなりません。主は、心から信じて従う者を善、不従順な者を悪とみなされます。善悪をはっきりと示すことができるのは神お一人です。マナセは徹底的に主の道から外れ、神殿を汚しました。主は教会にご自分の名を置かれます。私たちの教会も、日々悔い改めて身を聖め、主に従っていく教会となりましょう。
(2018.7.1)

 

あなたの周りには主の光と種がある/渡邊真太郎師
詩篇97篇11節、142篇2~3節
 私たちクリスチャンは世の光です。たとえ闇の中にいるような気持ちになっても、主の光と喜びの種はまかれています。種は、まかれている時には見えません。しかしそれはやがて芽吹き、育ち、花開くのです。疲れている時には、私たちのスピリットにまで疲れが染み込んでいかないように気をつけましょう。スピリットを守るためには、自分を神様に向けることです。八方ふさがりでも、神様はかならず私たちに素晴らしい将来を与えてくださっています。道に迷った時には、その場所を知っている人に道を聞きます。私たちの人生、将来を一番知っているのは神様であり、聖書は道しるべなのです。辛い思いは人ではなく神の元に持っていきましょう。神は私たち一人ひとりを知り(ガラテヤ4:9)、いつも共にいて愛し、必ず解決を与えてくださるのです。
(2018.6.24)

 

忘れてはならないこと/渡邊ミドリ師
申命記11章8~15節、29~32節
 私たちは人生の中で、忘れらないことをいくつか持っています。聖書の中でも、神様が、このことは決して忘れてはならないとおっしゃっていることがあります。イスラエルの民をエジプトから導き出し、紅海とヨルダン川を割られた奇跡がそうです。約束の地に入る時、主はゲリジム山に祝福を、エバル山にのろいを置かせ、御言葉と律法を永遠に忘れてはならないということを命じられます。それは、律法を私たちの心に刻むなら、必ず祝福が与えられるということです。その祝福とは、私たちを強くし、得たいものを所有させてくださるという約束です。そして主は祝福をもたらしてくださると同時に、必ずその地にリバイバルを興してくださいます。自分で計画したものは、それが壊れれば空しくなります。しかし主に従っていく時、私たちは本当の平安と喜びと真実を見つけることができるのです。
(2018.6.17 父の日礼拝)

 

岸辺に立つ/渡邊ミドリ師
詩篇139篇1~6節
 順調な毎日の中で、突然思いもかけない試練がやってくることがあります。そんな時、私たちはどのように対処すれば良いでしょうか。まず、信仰の確信を持つことが大切です。主は、私たちに起こる試練も解決の道もご存知です。自分が神の選びであるということを信じましょう。私たちを創造された主が私たちのことをなおざりにするはずがないのです。主はいつも私たちのすぐそばにいて、私たちの思い、信仰、すべてを知り、守り導いてくださっています。主と顔と顔を合わせ、御言葉に応答していきましょう。人間的な考えでは不可能に見えても、主を信じ、一歩を踏み出すのが信仰です。試練は私たちの受け止め方次第で、信仰の前進飛躍の時ともなり、危機ともなるのです。御言葉に従って行動するなら、主は私たちに不思議な御業を体験させてくださるのです。
(2018.6.10)

 

油断の結果/渡邊ミドリ師
II列王記20章12~21節
 ヒゼキヤ王は信仰によって強国に勝利し、不治の病をも癒されますが、その後、非常に大きな失敗を犯しました。この失敗が国全体の滅亡を招きます。幸せが続く時ほど、油断による過ちに陥りがちなのです。私たちも、洗礼を受けたからといって安穏としているのではなく、御言葉や礼拝を通して霊的な油を蓄え続ける必要があるのです。ヒゼキヤの失敗は、国中の宝をバビロンの使者に披露したことでした。自分の力を誇ってはならないのです。まず主の言葉を聞きましょう。そうすれば、道をそれることはありません。一度失敗すると、主の言葉が聞こえにくくなります。預言者イザヤから主の裁きの宣告を受けても、ヒゼキヤは自分の平安だけを考え、その重大さに気づきませんでした。サタンは天使に偽装し、平穏な生活の中に入り込みます。物事が順調に行っている時こそ、高慢にならないよう注意しましょう。
(2018.6.3)

 

あとに戻った影/渡邊ミドリ師
II列王記20章1~11節
 善王ヒゼキヤは、国に平和が訪れた矢先、病になり死を宣告されます。私たちも突然、死ぬと告げられたらどう受け止め、何を優先するでしょうか。ヒゼキヤは、まず自分の霊肉を支配する主に祈りました。自分が精一杯まことを尽くしたことを訴え、大声で泣いて主にすがったのです。祈りなくしては何の解決もありません。主は即座に祈りを聞かれ、病を癒し、十五年寿命を延ばしてくださると約束されました。そして、確証を求めたヒゼキヤに、しるしとして日時計の影を戻すという奇跡を見せてくださいました。この日時計のように、私たちが無駄にした時、失ってしまった時は主によって贖われるのです。病は時に、神がその臨在、あわれみ、恵みを豊かに示され、私たちの信仰がさらに増し加えられ、残りの生涯を主に捧げることを自覚するための機会となります。問題がある時こそ、自分の信仰をしっかりと確認しましょう。
(2018.5.27)

 

契約の箱に従う/渡邊ミドリ師
ヨシュア3章1~11節
 ヨシュアとイスラエルの民は、ヨルダンの岸辺に立っていました。彼らは、契約の箱を先頭に、900mという大きな距離を開け、ただ契約の箱だけを見て進むよう命じられます。これは、神の導きに従って進むということです。行く先は民にはわかりません。民に求められたのは、ただひたすらに、従って進むことだけなのです。御言葉に従って歩むということは、自分の都合のいいように解釈をすることではなく、疑うことなくただ従っていくという、純粋で単純な信仰を持つことです。そのような信仰を与えられるために必要なことは、身を聖めることです。それは、主の民に相応しくない、霊の妨げになるすべてのものから自分自身を切り離すことです。そうした時、主は奇跡を起こしてくださるのです。私たちも今、同じように溢れる水際に立たされています。一人ひとりが、それを渡り切る信仰を持ちましょう。
(2018.5.20 ペンテコステ礼拝)

 

母の信仰/渡邊ミドリ師
ルカ2章41~51節
 ここでは、主イエスの父母、ヨセフとマリアの家庭を模範として学びたいと思います。彼らは裕福でなくとも、毎年礼拝のためナザレから100kmのエルサレムに上りました。信仰の姿勢を示すということは非常に大切なことです。帰路で少年イエスがいないことに気づいた時、非常に動転する様は、私たちと同じ親の姿ですが、イエスが見つかると、マリヤは頭ごなしに叱ることなく、イエスが何を言うかにじっと耳を傾けます。そしてこれを心に留めたのです。十戒は四戒までは神に関するものですが、人に関する戒律の最初である五戒は、父母をうやまえという教えです。親が正しいことを教育できれば、子はその後に続く戒律を犯す者にはなりません。神はご自身に似せ、親と子の関係と同じように人を創られました。私たちも家庭を作る時には、そのように愛し慈しみ、礼拝することを教えて行くのです。そうすれば、子は勝利していくことができるのです。
(2018.5.13 母の日礼拝)

 

悔いなく生きるために/渡邊ミドリ師
創世記13章14~18節、箴言2章1~5節
 この箇所は、みもみ教会に33年前に与えられた御言葉です。御言葉を受け入れ、目を上げて、北、南、東、西を歩き、たどり着いた地が実籾だったのです。まず、目を上げましょう。耳を傾けましょう。サタンの囁きに耳を貸さず、神の御声を聞くのです。神の命令をないがしろにしてはなりません。御言葉にそのまま聞き従うなら、神は私たちを英知に導き、深い真理に到達させてくださるのです。試練に直面した時は、神に叫び求めましょう。神は過保護にはされませんから、なかなか解決が来ないこともあるかもしれません。しかしそれでも神に顔を向け続け、信仰を持ち続けるなら、必ずそれに応え、勝利を与え、すべてを益としてくださるのです。身を聖めましょう。主は不思議な御業を成してくださいます。その時、私たちは本当の信仰を持つことができるのです。主がしてくださったことを何一つ忘れてはなりません。
(2018.5.6)

 

伝道の十段階/荘 明義師
マタイ5章44節、使徒7章57~60節
 伝道は、通り一遍の方法ではなく、神の知恵をいただきながら一人ひとりに合わせて行う必要があります。迫害・反対する人に対しては、あきらめず祈りをもって時を待つことです。今の救いがないような状態を見てあきらめるのではなく、可能性を見ましょう。反対もしないけれど賛同もしない人に対しては、いきなり伝道せず、まず友だちになり、交流を深めることです。既にキリスト教に興味がある、信じたいという人には、まず黙って相手の話を聞き、必要を知り、どのように伝えればいいかを考えることが重要です。心を開いてくれたら、ぜひ教会に誘ってみましょう。無事洗礼を受けた後も、祈りと支え、励ましが必要です。人間の計画には限界がありますが、神に聞き従うことにより、道を開いていただくことができます。言葉だけで伝えるのではなく、生活、思いやり、愛など、様々なことで神を表現し、福音を伝えることを使命、喜びとしましょう。
(2018.4.22)

 

主が私を尊いと認めているのだから/渡邊真太郎師
エゼキエル22章18~20節、ルカ22章41~44節
 私たちは主に、御子のいのちという莫大なコストをかけるに相応しい存在であると認められています。ですから自分自身を、主が思われているのと同じように見る必要があります。私たちの価値を壊すサタンの声を退け、御言葉によって自分の価値を高めてください。主は試練を通して私たちを精錬し、純度を高めてくださいます。試練は私たちを輝かせるプロセスなのです。自分の中に弱さを感じても、状況が良くなくても、主はその御力を現せる方です。それを告白し確信することが信仰なのです。イエス様でさえ、試練に打ち勝つ強さを持ちきれないと思われたことがありました。しかしその目を苦難や内なる弱さに向けず、主がこんな状況を通しても素晴らしいことを成されるということに注目されました(ルカ22:41~44)。辛い状況に置かれたことにも自分の使命があるのだということを確信してください。主の御力は、弱さのうちにこそ完全に現されるのです(IIコリント12:9)。
(2018.4.15)

 

悩みの日のいと高き助け/渡邊ミドリ師
II列王記19章1~19節
 善王ヒゼキヤは、国が大災難にあった時、どのように解決を得たのでしょうか。彼はまず、預言者イザヤにとりなしの祈りを求めました。問題が起こった時には、最も信頼できる信仰の人、牧師などにとりなしてもらうことが非常に大切です。勝利のために成すべきことは祈りです。そして、問題を恐れないことです。ただ祈り、主を呪わせようとするサタンに屈することなく信仰と愛を示していくなら、主は必ず祝福してくださいます。主は私たちの信仰を確かなものとするためにチャレンジを与えられますが、解決しない問題は決して与えられません。ヒゼキヤのように、個人的に主と向き合い、主に、御耳を傾け御目を開いてくださるよう願いましょう(14~16)。ヒゼキヤは問題の解決を通して全世界に主の栄光が現されることを願い求めました(19)。本物の信仰は、自分のことばかりでなく、主の御心である世界宣教を願うのです。
(2018.4.8)

 

復活/渡邊ミドリ師
Iコリント15章13~14節、35~45節
 人が最も怖れるものは死です。神は人を死ぬものとしては創られませんでしたが、アダムとエバが禁じられた善悪の知識の木の実を食べたことにより、どんな人でも必ず死ななければならなくなったのです。しかし主イエスは、十字架の死から三日目に甦えられたことにより、死に勝利されました。主イエスの十字架と復活を信じた者は、御霊に属する者とされます。そして復活のいのちをいただき、死んだ後も、今なお生きておられる主イエスと同じようなお取り扱いを受けることができるのです。すなわち、新しい朽ちない身体となって、神の栄光の前に相応しい者とされるのです。復活後の主イエスは食事をされ、肉や骨をお持ちでありながら、閉じた戸を通ることもできました。あの栄光のからだと同じものが私たちにも与えられるのです。死さえも喜びへと変えてくださった主イエスの復活に、心から感謝しましょう。
(2018.4.1 復活祭)

 

十字架のいやし/渡邊ミドリ師
Iペテロ2章22~25節
 聖書の中でとりわけ重要な教えは、十字架と復活です。主イエスはご自分を捧げて人類の罪を負われました。主イエスの十字架を信じるということは、罪から離れ、義のために生きていくということなのです。そのためには日々聖めを願い求め、主に助けていただきましょう。また、主イエスは十字架により、魂の癒しと肉体の癒しを成し遂げられました。主イエスの心身霊肉の凄惨な痛み苦しみに対し、天は人類救済のご計画のために沈黙しました。その絶望的な時から三日目に、死を克服して勝利し甦えられたことにより、最も大きな救いと癒しが与えられ、主イエスは神であることが証明されたのです。天国の主イエスの身体には、救いのしるしである釘跡はありますが、それ以外のあらゆる傷跡はありません。主イエスこそ私たちの主治医なのです。完全な癒しは主から来るのだということを確信しましょう。
(2018.3.25 受難週)

 

それぞれの能力に応じて/渡邊ミドリ師
マタイ25章14~30節
 この有名なタラントのたとえ話で、主人はしもべたちに何を求めていたのでしょうか。第一に忠実さです。賜物は皆、同じではありません。不平を言わず、いただいたものに感謝することが大切なのです。第二に、与えられたものを十分に活かすということです。主人は与えた以上のものを求めませんでした。5タラントの人にも2タラントの人にも、褒め言葉と祝福はまったく同じだったのです。1タラントの人は、主人に対する認識を誤りました。1タラントには、6千日分の賃金に当たる、大変な価値があります。それを授けられたという素晴らしい恵みに気づかず、これしかくれないという不満、他との比較による負い目引け目を感じたのかもしれません。神が私たちに求めているのは、わずかなものに忠実であることです。私たちがいただいた賜物を忠実に用いた時、神に栄光を帰することができたという感動と喜びを味わうことができるのです。
(2018.3.18 新会堂6周年記念礼拝)

 

沈黙/渡邊ミドリ師
II列王記18章25~37節
 多くの金銀を巻き上げて退却したアッシリヤは、再び大軍を率いてエルサレムを包囲します。脅しをかけてくるような人間に弱みを見せ言いなりになると、必ずそれは繰り返され、さらに悪い状況を招きます。現代に生きる私たちも、時代や人の意見に迎合し、霊的に妥協してはならないのです。悪しき求めに屈しないためには、主の民が互いに互いを信頼し、問題に対して団結して立ち向かうことです。アッシリヤ王の使者ラブ・シャケは、民の前でヒゼキヤ王に対して悪口雑言を浴びせ、降伏を迫ります。その時、民は沈黙し、主の言葉と指導者の言葉に従いました。沈黙は最上の分別であり、雄弁に勝ります。主イエスも十字架にかかられる時、どんなにののしられ嘲笑されても何も語られませんでした。サタンに耳を貸したエバのように、悪しき者と会話をしてはなりません。時には沈黙こそが懸命な選択であり、勝利への道となるのです。
(2018.3.11)

 

神の御力か、自分の力か/渡邊ミドリ師
II列王記18章13~25節
 ヒゼキヤは偶像を破壊し宗教改革を成し遂げた善王でしたが、アッシリヤが最初に攻め入った時には人間的な弱さを見せ、すべての要求をのんで多量の金銀を渡してしまいます。悪しき者の求めには、決して応じてはなりません。ヒゼキヤはその失敗を悔いて奮い立ち、次の戦いに備えました(歴代誌32)。神は悔い改める者を必ず赦し、新しい知恵を与えてくださるのです。再び攻めて来たアッシリア王の使者ラブ・シャケは「いったいお前は何により頼んでいるのか」と言って民の前でヒゼキアを嘲笑します。しかし民はヒゼキヤの指導に従い、ののしりの言葉に惑わされず黙っていました(36)。どんな時も、悪口雑言に屈してはなりません。私たちを勝利させるものは神の御言葉しかないのです。私たちはどんなことがあっても静かに主の御言葉の前に立って答えをいただき、それに従って行動できるようにしましょう。
(2018.3.4)

 

滅びと改革(リバイバル)/渡邊ミドリ師
II列王記18章1~12節
 北イスラエルがアッシリヤによって滅亡した時、南ユダではヒゼキヤが王となり、彼によって宗教改革、信仰復興が成されました。ヒゼキヤ王の信仰は、ユダの王たちの中で最も良かったといわれています。彼は主に信頼して間違ったことになびかず、命令を守りました。これこそが、主に求められることなのです。神はそれぞれの信仰を評価されます。神に評価していただける信仰を持ちましょう。ヒゼキヤの行ったリバイバルは教会の手本となります。リバイバルが興るためには、必ず勝利があるということを確信することです。神の御心を行う時は、たとえ反対者があっても揺るぐことなく、神とその御言葉にしっかりと従い続けましょう。人生の終わりは滅びか救いしかありません。対照的な南北イスラエルに学び、同じクリスチャンでも明暗を分けることのないよう一人ひとりが気を引き締めましょう。
(2018.2.25)

 

身についてしまったものを変える/渡邊ミドリ師
II列王記17章33~41節
 アッシリヤ王がサマリヤに連れてきて住まわせた人々は、様々な偶像を持ち込みました。主は繰り返し、他の神々を恐れてはならない、主だけを恐れよと言われましたが、彼らは真に畏怖することなく、獅子による主の罰(25節)を恐れただけでした。そして唯一の神を、異教の神々のうちの一つとして拝んだのです。クリスマスを祝い、初詣に行き、節分をする現在の日本人の宗教観も、彼らとまったく同じです。信仰というものを勘違いしてはなりません。このような御言葉から外れた状態に陥らないためには、この世と妥協しないことです。イスラエルの民が繰り返し罪を犯したのも、簡単に妥協したからです。妥協は悪魔からくるものです。御言葉から外れるということは、偶像に心を開いているのと同じなのです。唯一の主の、素晴らしい力と聖い御腕に日々支えられていることに感謝し、主の命令と掟と定めとを守り行う者となりましょう。
(2018.2.18)

 

この場所で心の健康診断/渡邊真太郎師
マラキ1章6~7節
 私たちは身体や心だけでなく、霊的な健康状態にも敏感になる必要があります。一番霊的な状態をチェックできるのは礼拝です。もし礼拝に義務感を覚えているとしたら、霊的に風邪をひいているのです。礼拝に来る前に起きる大変な出来事と、礼拝そのものの素晴らしさとは無関係だということを忘れないでください。礼拝をおろそかにし、主から離れれば離れるほど、霊的状態は悪化します。霊的健康診断を怠った最悪の状態は、神を疑い、神を捨てる決断をすることです。今まで主が導き助けてくださったことを忘れないでください。絶望の時こそ、完璧な医師である主を求め、癒していただく必要があるのです。サタンの目的は、私たちに神を呪わせ、神との関係を裂くことです。どんな試練の時にも、神を疑う者、呪う者には決してなってはなりません。礼拝の場で神に触れていただき、神に対する疑いをすべて捨て、それを御恵みと置き換えましょう。
(2018.2.11)

 

聖なることにこだわる人/渡邊ミドリ師
II列王記17章24~43節
 私たちは聖いものよりも罪のほうに簡単になびいてしまいがちです。今の世も列王記の時代と変わらず、私たちを惑わすものが蔓延しています。そのような中で、断固として神の道を守り通す者となることが大切です。悪しき慣習を変えることは困難ですが、聖なることにこだわる者たちはそれに勝利することができるのです。聖なることにこだわるとは、間違ったことに決して適応しないことです。便利なこと、利潤を生むものの背後には悪しきものの策略が隠れていることが多々あります。サマリアに移住した異邦人たちの間違いは、祭司から唯一の神について学んでいながら、同時に自分たちの神々を礼拝することをやめなかったことです。偶像の背後には悪霊がいます。私たちはいかなる時にも、毅然として偶像をはねつけましょう。聖なるものにこだわる姿勢こそ、祝福への道なのです。
(2018.2.4)

 

立ち返る/渡邊ミドリ師
II列王記17章13~23節
 神の民イスラエルは、出エジプトをはじめとする大きな救いの奇跡に預ったにも関わらず、それらをすっかり忘れ、幾度となく与えられた警告にも耳を貸さず、神ではなく人に頼りました。神に裁かれる大きな要因の一つは、御言葉を軽んじることです。信仰的に成長する人とそうでない人の違いは、警告に耳を傾けるかどうかなのです。掟と定めと命令を守り行えば、神は私たちを愛し、祝福してくださいます。それは難しいことではく、大きな負担を強いられているわけでもないのです。罪の伝染力を軽んじてはなりません。裁かれた北イスラエルの罪は、南ユダにも蔓延していきました。ほんの小さな罪に鈍感になることが、滅びへと繋がっていくのです。自分で気づいていない罪をも主に示していただき、隅々まで聖めていただきましょう。
(2018.1.28)

 

本心に返る/渡邊ミドリ師
II列王記17章1~12節
 イスラエルは選びの民であり多くの奇跡を体験してきたにも関わらず、不信仰の罪を繰り返します。この箇所から教えられる真理の一つは、主を恐れず人に頼るなら失望するということです。大国アッシリヤの属国から脱却するため、北イスラエルはもう一つの大国であるエジプトに頼ります。しかし、彼らがアッシリヤの捕囚とされた時、エジプトは一切助けてはくれませんでした。人間の約束はまったく意味を成さないのです。第二に、偶像に気をつけなければならないということです。偶像とは異教の神々ばかりではありません。神でないものに目を向け流されてしまうならそれは偶像と成りうるのです。自分は間違ったことをしていないと思うことこそ一番の間違いです。本当の悔い改めがなければ本当の解決はありません。現在もイスラエルに罪を犯させたサタンの誘惑は働いているのです。私たちも同じ失敗を繰り返さないように身を引き締めましょう。
(2018.1.21)

 

主のしもべ/渡邊ミドリ師
ヨシュア記1章1~11節
 イスラエルの指導者モーセの死後、後継者となったヨシュアは、民と共に約束の地を獲得するという使命を神からいただきました。それは私たち、そして現在のすべての教会に与えられている使命でもあります。そのために必要なのは、主のしもべとなることです。この書の中で「主のしもべ」という言葉はモーセにのみ使われ、ヨシュアは「モーセの従者」と言われていました。しかしその人生を閉じた時、初めてヨシュアは「主のしもべ」と記されたのでした(24:29)。広大な地を獲得するためには、命令とおきてと定めを守り行う必要があります。主が御心のうちに立てられたご計画に従って生きていくことが大切なのです。神は何度もヨシュアを励まします。まことの勇気は人間の中から出るものではなく、神が味方であることから来るのです。私たちも神の勇者として、御言葉を先頭にして眼前に立ちはだかる川を渡り、主の成し遂げられる御業を見届けましょう。
(2018.1.14)

 

行くべき道を知る/渡邊ミドリ師
ヨシュア記3章5,11,17節
 私たちは人生のうち何度となく、どの道を選べばいいか迷います。しかし、私たちの行くべき道を決めるのは主なのです。紅海が二つに割れたエジプト脱出の奇跡の40年後、モーセの後継者ヨシュアは、民を率いて約束の地に向かう進路を再びヨルダン川に阻まれます。彼は、主の臨在のしるしである契約の箱を先頭に見ながら、民にその後ろを進ませました。私たちも、先導者である主イエスから目を離さず、御足の後をついていくだけでいいのです。そのためには、まず身を聖めることです。日々悔い改め、自分の罪から切り離されて、聖化していただきましょう。紅海の時には、主が直接介入して海を割りましたが、ヨルダン川は、彼らが信仰によって川に足を踏み入れたことで割れたのです。ヨシュアは既に神に勝利を与えられているという確信を持っていました。私たちにもサタンによる敗北はありえません。勝利の御旗は私たちの前にあるのです。
(2018.1.7)

 

もう少しだけ感謝をする/渡邊真太郎師
IIコリント4章16~18節、ローマ8章28~34節
 まことの神を知るということは、本当に素晴らしいことです。自分が設定した限界が取り払われ、人生の見解が、今よりももっと大きな範囲まで広げられるのです。目の前の出来事を見ると、それで人生がすべて決まったかのように見えます。しかし、今起きている事実に目を留めるのではなく、その事実の背後に働く主を見ましょう。私たちは嫌なことが起こると、主イエスが私たちのために莫大な犠牲を払ってくださったことをつい忘れがちです。主は絶対に味方であり、良いことしかなさいません。つらいことも、すべて良いことに至るために起きているのです。主は私たちを決して見捨てず、多くの恵みを与えてくださっています。ささいなことでも、自分が願っているよりも多くを与えられていることがあるはずです。それを忘れず、もう少しだけ、今よりも感謝をしましょう。
(2018.1.1 新年礼拝)

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