2020年のメッセージ

ハレルヤ:主に感謝/渡邊ミドリ師
詩篇146篇1~10節
 全世界どこでも使われている「ハレルヤ」という言葉は、ヘブル語で「主(ヤハウェ)をほめたたえよ」という意味です。この箇所では、「主(ヤハウェ)」と言葉が何度も繰り返され、生きている限り、命のある限り、主を賛美するようにと教えています。作者は幸せの絶頂の時にこの詩を詠んだのではありません。捕囚の民であった彼らは、異教の地で大変な試練の時を過ごし、ついにそこから解放され、エルサレムへと帰還しました。しかし故国の神殿は崩れ去り、問題が山積していました。そんな悩み多い時にも、彼らはしっかりと主を仰ぎ、ハレルヤと賛美し、自分たちの信仰を奮い立たせたのです。彼らは、人に、朽ちるものに頼ってはならないということを悟りました。主に望みを置く者こそ幸いなのです。そこに失望はありません。今の世も大変な試練の中にありますが、私たちも主への感謝と賛美に溢れつつ、2021年への旅路に入りましょう。
(2020.12.27)

 

クリスマス:救い主イエス・キリストの誕生/渡邊ミドリ師
ルカ1章45節、2章8~15節
 主イエス・キリストの誕生の際、御使いはこの素晴らしい喜びのニュースをまず羊飼いに告げました。彼らは神の祝福を受けるに相応しい信仰だったのでしょう。聖書の中で羊飼いと羊の関係は、主イエスと私たちになぞらえられ、神と人との愛を示しています。羊飼いの仕事というのは大変に過酷です。昼は羊を木陰や水辺に導き、夜も交代で寝ずの番をするのです。そんな中で彼らは、主イエスが必ず来臨されると信じていたのです。イスラエルの民は救い主の来臨について語り継がれるのを聞いて育ちます。彼らはそれを今日か今日かと待ち続け、望みを捨てませんでした。神は揺るがない信仰に必ず応えてくださいます。しかし、羊飼いにもたらされたこの良い知らせは、地位、名誉、学歴、富を持つ者たちには届きませんでした。私たちも、終わりの日のことを真剣に考えなければなりません。再臨の時に置いて行かれることのないよう、身を引き締めましょう。
(2020.12.20 クリスマス礼拝)

 

見よ、彼が来る! 神に帰れ!/渡邊ミドリ師
マラキ3章1~7節
 主イエス誕生の400年前に書かれたマラキ書では、既にその到来が予告され、神に帰れと厳しい警告が成されていました。そこには神を侮る者が必ず裁かれることだけでなく、悔い改めと救いのメッセージをも予告されていたのです。主は罪人たちを裁くためではなく、彼らから不純物を取り除くためにやって来られました。また、彼らに良心を自覚させ、神を恐れる心をお与えになるのです。これがおできになるのは、主イエスしかおられません。しかしクリスマスに救い主として来られた主は、再臨では裁き主として来られます。悔い改めない者は有罪とされるのです。ノアの時代に救われたのは、たったの8人でした。主イエスが来られても、ほとんどのユダヤ人は信じませんでした。それほどに人間は汚れているのです。現代もまた同じです。終わりの時には、多くの惑わしがあります。私たちも気を引き締めて祈り、再臨に備えなければなりません。
(2020.12.13)

 

時は来た──良い知らせを伝える足は──/渡邊ミドリ師
イザヤ52章1~12節
 たとえ絶望的な状態にあっても、良い知らせは必ず来ます。罪のゆえにバビロン捕囚となったイスラエルの民は、まったくの異文化の中で非常に苦しみました。しかし、預言者から「あなたの神が王となる」という良い知らせを受けたのです。それはバビロンから神の都エルサレムへ帰れるという、希望と慰めのメッセージです。本当に主イエスの十字架と復活を信じているなら、神様は試練を必ず良いものへと変えてくださいます。災いの中にあっても、教会とクリスチャンには、その背後にある主の御光が必ず備えられ、良い知らせを握りしめた主がおられるのです。そして主イエスの十字架をしっかりと知った者には、人々に平和、幸い、救いを知らせる足が与えられます。私たちはその足を、福音宣教のために用いるのです(ローマ10:15)。エルサレム帰還は、新しい出エジプトでした。私たちも再臨携挙に備えて身を聖め、御国への凱旋を確信しましょう。
(2020.12.6)

 

教会生活/渡邊ミドリ師
Iテモテ5章17節~6章2節
 聖書には、あらゆる問題に対する答えがすべて記されています。御言葉から教えをいただけるのはクリスチャンの特権です。ここでパウロは、牧会で苦労しているテモテに、教会生活の中でクリスチャン、特に牧会者に必要なことは何かを教え、励ましています。これは私たちへの教えでもあります。まず、良き霊的リーダーを尊敬し、支えましょう。働き人は正当な報酬を受けるべきなのです。また、神様からの知恵を一人ひとりが持つ必要があります。私たちは自分の浅知恵で物事を判断し、そのために後悔することになりがちです。しかし神様は私たちのための計画を既に持っておられ、私たちはその中に生かされているのです。そして実行していくべきこと、してはならないことが、御言葉によって示されていくのです。どのような計画があっても、神様のご計画だけが成ります。主に信頼しすべてを委ねるなら、私たちの成すことを主が保証してくださるのです。
(2020.11.29)

 

教会の心得、家庭の心得/渡邊ミドリ師
Iテモテ5章1~16節
 ここで語られているのは人としてのモラルであり、教会全体の正しい人間関係のあり方についての2つの原則、家庭の心得・教会の心得です。文明が進み繁栄するに従い、家庭は核家族となり親子関係も希薄になってきています。しかしそのような中でも、家庭は主が与えられたものだと心得て、親子関係にもモラルを持ち、クリスチャンとして証しとなる家庭を築かなければならないのです。家庭で主の御前に模範的キリスト者として生活しているなら、どのような問題が起こっても、周りが変わっていきます。教会もまた、あらゆる年齢層の人が集まり、皆、育った環境も性格もまったく違いますが、同じ信仰、同じ理念を持った霊の家族となるのです。様々な問題を持った人が来られた場合、どのように対応していくかを教会側も考えていく必要があります。私たちも年配者を尊敬し、兄弟姉妹には真の家族のように接し、神に喜ばれる教会となりましょう。
(2020.11.22)

 

敬虔のために自分を鍛錬する/渡邊ミドリ師
Iテモテ4章4~16節
 手紙の中でパウロは、繰り返し「敬虔」という言葉を使っています。教会にとって非常に大切な言葉だからです。私たちは敬虔の鍛錬をする必要があります。御言葉と祈りによって日々聖められましょう。スポーツ選手が金メダルを目指して肉体を鍛錬するのは、この世の人生のためのことです。しかし、クリスチャンの鍛錬は、約束された永遠のいのちの始まりなのです。勝ち取るべき栄光を目指しながら、今のいのちを生きていくのです。今のいのちを正しく生かし、必ず御国に凱旋できる時がくるという確信をもって歩んでいきましょう。主イエスの受肉、十字架、復活に心から感謝し、いつも賛美を捧げましょう。これこそ敬虔の奥義なのです(3:16)。どのようにすれば敬虔であることができるか、主に導きをいただきましょう。そして、その生き方によって証しとなることこそ、クリスチャンのあるべき姿なのです。
(2020.11.15)

 

神の家とその家族/渡邊ミドリ師
Iテモテ3章14節~4章5節
 パウロはエペソで牧会するテモテを助けるため、ここで2つの大事なことを伝えています。これをテモテ個人だけでなく信徒全体に読んでほしいという熱心な願いもありました。一つは、教会は神の家であるということをしっかりと心に留めることです。神であるお父様に、家族である兄弟姉妹に会いに行くという熱い思いをもって礼拝に集うのです。もう一つは、今いる町・国において、教会が、真理の柱・土台となるということです。一人ひとりが地域への使命をもって働くのです。私たちが今ここに導かれたのも、この地に真理を、主イエスの福音を伝えるためなのです。しかしパウロは、その真理のことばを妨げようとする偽教師たちが入ってくることについても警告しています。私たちは神の家族として堅く立ち、何を使命として成すべきかを主に祈り求めましょう。聖霊の力には誰も及びません。主の聖めこそが勝利なのです。
(2020.11.8)

 

たましいの見張り人/渡邊ミドリ師
Iテモテ3章1~13節
 ペンテコステ以来、召された者たちが一か所に集まる場として教会が誕生しました。それに伴い必要とされたのが、信仰と愛、聖さに満ちた役員です。ここには、監督(長老)・執事について、多くの資格が記されています。監督は教会を良く管理し見張る者として、執事は愛をもって奉仕する者としての役割があります。どちらが上ということではなく、教会運営のための賜物の違いなのです。良い人格と、聖書を正しく理解する力を持ち、金銭を愛することなく、家庭をしっかり治め、悪魔に付け入られることのない者──こういった条件は、役員だけに求められ信徒には関係がないということではありません。教会の霊的な育成のために、一人ひとりがどのようにあるべきかの教えでもあるのです。私たちがこのような性質を備えることを求め、それぞれの務めをしっかりと果たすならば、強い信仰の確信をもってすべての良いものを獲得していくことができるのです。
(2020.11.1)

 

主イエスにあって一つ/渡邊ミドリ師
Iテモテ2章8~15節
 ここは男性が女性を攻撃するのに利用されがちな箇所です。聖書の中で難解な場所にぶつかった時、一部分だけを抽出して解釈するのは危険です。事実パウロは別の箇所で男子も女子もないと言い(ガラテヤ3:28)、彼の同労者の中には女性牧師ユニア(ローマ16:7※新改訳2017)をはじめ、プリスカ、スントケなど女性の働き人もいたのです。言葉と知恵は主から来ます。御霊に教えを乞いましょう。ここで真に語られているのは、秩序を保つということなのです。当時のエペソ教会では、女性たちが異文化の影響により、派手に装ったり違う教えを持ち込もうとしていたという背景があり、パウロはそれを戒めたのです。男性も同様に、人間関係を正しくし、宗教的儀式的ではなく道徳的倫理的に真の祈りを捧げることが求められています。人格や育った環境の違う人々が一つになるのは非常に難しいことです。しかし、私たちは主を父とした家族として、一つとなって歩むことができます。そうすることで、教会全体が聖められていくのです。
(2020.10.25)

 

平安で落ち着いた生活を得るために/渡邊ミドリ師
Iテモテ2章1~7節
 私たちが平和な生活を得るためには、どのようにすれば良いでしょうか。まず第一に、救われて真理を知ることです。自分は救われていても平安がないと言う人は多いと思います。勿論、救われてからも様々な試練はあります。しかし、そのような中にあっても、神の国と神の義を第一に求めるのです。私たちが十字架の贖いによって罪赦され、聖霊が内住してくださり、永遠の恵みを受けるという真理を知るなら、苦難を乗り越える強さをいただくことができるのです。そして敬虔と威厳、品性をも与えられ、どのようなことがあっても、感謝する心を持つことができるのです。また、周囲との関係を良くする人格へと変えられます。不平ばかり言うのではなく、周りの人たちや、政治家など上に立つ人たちのために執り成すことが大切なのです。何事にも無関心になってはなりません。現実を見据え、必ず良い方向に変えられると信じて祈り求めていきましょう。
(2020.10.18)

 

力を広くする/渡邊真太郎師
イザヤ60章1~3節、ピリピ2章14~16節
「苦難の日に気落ちしたら、あなたの力は弱い」(箴言24:10)という御言葉があります。この「弱い」に使われている言葉は、直訳すると「狭い」という意味です。つまり、苦難の日にどう対応するかで私たちのキャパシティが決まるのです。主を知り、主の知恵に満たされることにより、キャパシティを広く大きくする必要があります。この世界は一瞬であり、その向こう側の世界こそが永遠なのです。私たちには、やがてキリストに似た者へと完成されていくという究極の希望が与えられていることを忘れてはなりません。たとえ苦難に飲み込まれそうになっても、この希望を見る時、私たちの心は広くなり、神の栄光の耀きによって世を照らすことができるのです。闇の中でも希望を捨てず、主のために最大限のことをしていきましょう。主のためにしていることで、無駄なことは何一つありません。どんなに小さなことでも、必ず将来の耀きにつながっていくのです。
(2020.10.11)

 

信仰の破船にあわないために/渡邊ミドリ師
Iテモテ1章12~20節、使徒16章1~3節
 パウロはここで、自分の過去、現在、そして将来にどのような期待を持っているかについて語っています。真の神様と出会う前の自分は、この世のどんな人間よりも罪深い者であると告白をしているのです。しかし、現在の自分は主イエスの使徒であると言っています(Iテモテ1:1)。過去を振り返り、また現在を見るのは大切なことです。私たちも、自分は正しいと言える人など一人もいません。しかし今はこうして礼拝に集い、万人祭司、万人伝道者として福音を伝えることを主に任されています。そして将来には、永遠のいのちを持てるという神様の約束があります。この約束を実現する先駆けとなったのがパウロであり、それに追随していくのが私たちなのです。たとえ自分自身の愚かさ弱さを感じても、神のあわれみのゆえに救われ生かされているのだということに勇気づけられ、永遠のいのちを得ることのできる幸いを覚えましょう。
(2020.10.4)

 

まことのいのちへの道/渡邊ミドリ師
創世記1章26~27節、2章7~8節
 神は天地創造において、植物、動物、魚、虫に至るまで、すべてを創られました。そのクライマックスが、私たち人間の創造です。人間は、神のかたちに造られました。「神のかたち」とは、人間だけに吹き込まれた「神の息」です。人間だけに、肉体のいのちと霊のいのちが与えられたのです。エデンは人間を置くための最高の場所として造られました。私たちもまた、召されればパラダイスに置かれ、主と共にいることができるのです。神が人間を創られた目的、それは神の栄光を現すことです。主は、ご自身を礼拝することを私たちに求めておられます。礼拝する時、主と共にあるその場もまたパラダイスとなるのです。人間に息を吹き込まれたのと同じように、主イエスは十字架によって死に勝利し、信じる者に聖霊をお与えくださいました。私たちは創られた時の目的に従い、神を礼拝する者として、主の御足の跡にしっかりと踏み従って行きましょう。
(2020.9.27 召天者記念礼拝)

 

健全な良心と偽りのない信仰/渡邊ミドリ師
Iテモテ1章1~11節
 テモテとテトスへの手紙は、牧会書簡と呼ばれ、教会組織の中にある働き人のための教えを記したものです。私たちもこれを教会に、個人の信仰に適用し、導きと励ましをいただきましょう。パウロはまずここで、健全な良心と偽りのない信仰を持つようにと勧めています。テモテに任せたエペソの教会には、違った教えが入り込んでいました。しかし心と信仰が整えられているなら、霊的に敏感になり、偽物を見極めることができるのです。旧新約66巻を通して、聖書の教える救いはイエス・キリストの十字架のみです。偽りの教えはそこに新しいものを付け加え、わかりやすい教えを複雑にし、救いから人を遠ざけるのです。無益な議論をする人に気を付けましょう。主イエスの救いを聖書のとおり素直に受け止めた時、健全な良心と偽りのない信仰が与えられます。そして、主イエスが与えてくださったのと同じような愛を、私たちも持つことができるのです。
(2020.9.20)

 

惑わされないように/渡邊ミドリ師
ルカ21章8~15節
 サタンは光の天使に偽装します。イエス様は、偽物に惑わされないようにと警告されました。世が不穏な状況になると、そこにありとあらゆる惑わしが入り込みます。御言葉を自己流に悪用し、自分こそ正当であると主張して聖徒をそそのかす者も現れます。私たちは終わりの日について、正しい理解を持たなければなりません。戦争、災害、飢餓、疫病、迫害などは、人類の歴史の中で常に起こってきましたし、これからも起こります。これらのことは、罪の結果として人類が負わなければならないものであり、そこから逃げることはできません。しかしどんなことがあっても、イエス様は私たちを保護してくださるという約束があります。再臨はまだまだ来ないなどと油断してはなりません。世の終わりについて惑わす者が現れても、ただ恐れず騒がず御言葉によって霊的に整えられていくなら、はっきりとわかるしるしを見ることができるのです。
(2020.9.13)

 

自分自身を吟味しなさい/渡邊ミドリ師
IIコリント13章1~13節
 この書を終えるにあたり、パウロはこれから3度目の訪問をしようとしているコリントの教会と信徒に対して警告を発しています。この警告は、私たちになされたものとして受け取ってください。それは、自分を試し、吟味しなさいということです。御言葉と向き合い、悔い改めによる聖めへと導かれる必要があるのです。クリスチャンの大きな特権は、どんな時にも天地万物の創り主である真の神に祈ることができるということです。また、パウロは外面的には弱い人のように見えましたが、彼には共にいてくださる神の力がありました。クリスチャンの言葉には権威があるのです。どんな問題があったとしても、自分たちが正しくあるために、どんな悪をも行うことのないように祈りましょう。そして真理の御言葉に従いましょう。それができないということは決してありません。健全で調和のとれた信仰は、私たちを完全な者へと成長させるのです。
(2020.9.6)

 

しるしと不思議と力あるわざ/渡邊ミドリ師
IIコリント12章11~21節
 教会に偽教師や偽働き人、偽クリスチャンが入ってきた時、私たちは、本当に主の召命を受けた人とはどのような人かを見抜く目を持たなければなりません。サタンは御言葉を用いて惑わします。信仰が弱いと、それを見抜くことができないのです。本物とはどのような人でしょうか。パウロのように、いつも聖霊の働きと共に歩む人です。何をするにも御言葉から始め、御言葉の通りに動きます。そうすれば、霊的な力がいつも神様から与えられるのです。主の召命を受けた人は、この人こそ主の働き人であると認められるようなしるしを持っています。必ずその場所で主の栄光を現すのです。どんな不当な扱いを受け悪口を言われても、神の力あるわざが必ず共に働くことを信じましょう。主の力あるわざは、悔い改めのない所には現れません。悔い改め、御霊と共に御言葉に従って歩むなら、必ず不思議な解決が与えられ、偽物をも黙らせることができるのです。
(2020.8.30)

 

主との関係をもう一度耕す/渡邊真太郎師
箴言20章4節、エペソ3章17~19節
 畑は冬の間も放置することなく耕し整え、次のシーズンの実りに備える必要があります。試練の時、主との関係が冬の時代にある今も、心を柔らかく耕していかなければなりません。刈り入れの時は必ずやってきます。畑仕事は一度手をつけたら途中でやめることはできません。どちらを選ぶべきか迷う時は、選ぶこと以上に、選んだ後、そこに身を投じ、選んだ道に責任を持つことのほうが、より大事なのです。一度主と関わったなら、自分自身とその人生を投ずるのです。イエス様に根ざし、信仰に関する事柄をもう一度最優先にしましょう。この世の型に自分を当てはめ、主と接する時間を減らしてはなりません。自分の力で問題に対抗しようとするなら枯渇してしまいますが、イエス様の愛に根を張るなら、本当の土壌から絶えず新しい力を吸い上げることができます。神に従う柔らかい心を養い、必ず次の実の刈り入れができることを確信し、期待しましょう。
(2020.8.23)

 

主の幻と啓示/渡邊ミドリ師
IIコリント12章1~10節
 ここでパウロは「ひとりの人」に起こったこととして、彼自身の特別な霊的体験を証しします。それは第三の天、パラダイスに引き上げられるという、誰も経験したことのない、偽使徒たちも一切反論できないほど圧倒的な神体験でした。パウロはこの証しを通して、自分を使徒として遣わしたのは他ならぬ神ご自身であるということを証明したのです。その素晴らしい体験によって高ぶることがないよう、彼は肉体にとげを与えられましたが、主の御力は、弱さの中に完全に現れます。幻と啓示は、主の謙遜な証し人にこそ与えられるものなのです。主の栄光を自分の栄光としてはなりません。私たちがペンテコステのような聖霊体験を得るためには、まやかしのない一致した祈りが必要です。一致した祈りの中には必ず主がおられます。主の幻と啓示は、既に用意されています。私たちは主がどんなことを示してくださるのか、希望をもって待ち望むことができるのです。
(2020.8.16)

 

指導者の資格/渡邊ミドリ師
IIコリント11章16~33節
 パウロは、彼には使徒の資格がないと主張する者たちに反論するため、あえて「自慢話」をします。偽使徒たちが自慢としている肩書、経歴などに何ら引けを取らないものを自分も持っている上、さらに誰も及ばないほどの苦難の道を歩んできたことを証ししたのです。それは、神からの真の召命とは何かを示すためでした。私たちにも、職場で、友人知人の間で、クリスチャンとしての自分の立場をはっきりと示さなければならない時があります。その時、クリスチャンであると言いながらこの世に妥協してしまうか、聖霊の力を示す時として受けて立つか、どちらかに分かれるのです。妥協はサタンの力です。私たちはそれと戦わなければなりません。神は私たちが弱い者であるということをご存知で、御翼の内にある雛のように、ご自分の瞳のように、いつも守ってくださる方です。神にすべてを相談し、御言葉に従うなら、何も難しいことはないのです。
(2020.8.9)

 

真理に似た偽物/渡邊ミドリ師
 IIコリント11章1~15節
 本物のある所には、偽物の妨害があります。偽物は、真理の言葉をも用いて私たちを惑わそうとします。本物より見栄え良く、言葉巧みである場合が多々あります。コリントの教会でも、偽物に従ってしまう者たちがいました。私たちにも、偽物を見抜く霊的な力が必要なのです。自分は大丈夫、と思わないでください。彼らは非常に巧みな手段で入り込むのです。偽物はサタンが神になろうとしたように、イエス・キリストや使徒に偽装し、真理から離れた教えを語ります。サタンの性質は偽りです。嘘も方便と言って小さな嘘をつくうち、次第にサタンの性質を帯びていくのです。この地上は原罪を持った者たちの集まりです。様々な苦難の中で、私たちは答えを見出していかなければなりません。しかし、聖書にはすべての答えがあります。クリスチャンとしての誇りを持ち、確信を持って真理を宣べ伝えましょう。それこそが本物なのです。
(2020.8.2)

 

神に立てられた器/渡邊ミドリ師
IIコリント10章1~18節
 コリントの教会に入り込んだ偽教師たちは、パウロには使徒の資格がないと主張していました。それを受けてパウロは、うわべで人を見るのではなく、神に立てられた器を見定める信仰を持ちなさいと信徒たちに勧めました。惑わされないためには、本物と偽物を知る信仰の目が必要なのです。自己推薦する者には注意しましょう。主に推薦された人こそが本物なのです。偽者たちは、一見熱心なようでも、自らを高くし人を誹謗中傷したりします。そのような者は教会をかき乱します。彼らの背後にいるサタンが、破壊する者であり偽り者だからです。私たちの戦いの武器は、主に敵対する者たちの要塞をも破る「御言葉」です。御言葉に立つ人は、何をするにも自分がキリストに属する者であることを自覚し、クリスチャンとして相応しい者でありたいと願います。パウロは主の働き人として、絶対に主にある権威を崩しませんでした。私たちもそれを模範としましょう。
(2020.7.26)

 

本当の喜びを知る/渡邊ミドリ師
IIコリント9章1~15節
 本当の喜びとは何でしょうか。欲しい物を手に入れ、やりたいことをやることでもたらされる喜びは一時的なものです。クリスチャンとして、教会としての本当の喜びとは、主に仕え、主のために奉仕し、捧げることなのです。惜しみなく進んで行うなら、それは喜びとなり、周囲への証しとなります。貧しい教会や働き人を助けるために、常日頃から捧げる準備をしておきましょう。どんなに熱意があっても、行動が伴わなければ意味がないのです。パウロがこのように繰り返し強く献金を勧めているのは、私たちがお金に執着し、間違いを犯しやすいからです。貪欲な心は献金を惜しみますが、霊的に整えられた人は決して不平を言うことはありません。神様は私たちに蒔くべき種を与え、それを成長させてくださいます。私たちが種を蒔くなら、その収穫物を刈り取って必要を豊かに満たし、さらに多くの人に分け与えて喜びを共有することができるのです。
(2020.7.19)

 

公明正大なこと/渡邊ミドリ師
IIコリント8章16~24節
 パウロは信仰を回復したコリント教会に、さらに困難な状況にあるエルサレム教会を支援するよう勧めました。そしてその献金をエルサレムに届ける霊的な人として、テトスと二人の兄弟を選びました。このような役割には、神の御前ばかりでなく、人の前でも公明正大であることが求められます。彼らはマケドニアの諸教会でとても評判が良く、忠実で熱心な働き人で、人から言われてではなく自発的に行動することのできる人たちでした。パウロにとっても大きな助けとなっていたのです。パウロは彼らが持っている信仰と誠意が神の栄光を現すと知っていました。クリスチャンは皆、このようにあるべきです。パウロが願ったことは、コリントの教会の人々もまた、彼らのように、口先だけでなく行為によって他の教会に対して愛を示すようになってほしいということです。私たちも、公明正大な人格と良い信仰を持った、愛ある証し人となりましょう。
(2020.7.12)

 

他の人のために──与えるということ/渡邊ミドリ師
IIコリント8章1~15節
 マケドニアの人々は、極度の貧しさにも関わらず、苦しみの中にあったエルサレムの教会のために、喜んで惜しみなく捧げ物をしました。パウロはコリントの人々に、彼らを模範として、他の人のためになることをし、与えることを喜びとするよう勧めました。金銭を愛することは悪の根であり、捧げることは人を最もつまずかせます。しかし、主への熱心があり、捧げることが神の恵みであると知るならば、逡巡することなく、自然に実践することができるのです。まず、自分自身を主に捧げましょう。そうすれば、他者に愛を向けることができるようになります。他者への愛があるなら、福音を自分だけのものとせず、伝えたいと思うようになるのです。それは教会の使命でもあります。良いと思うことは他に先んじてしましょう。御言葉を聞くだけでなく実行する者となるなら、信仰が変わります。そして神様は必ずそれに報いてくださるのです。
(2020.7.5)

 

全幅の信頼/渡邊ミドリ師
IIコリント7章1~16節
 パウロは堕落したコリントの教会を、手紙によって立ち直らせていきました。コリントの行状を聞いて苦しみ悲しんだ彼は、厳しく罪を指摘しつつも教会と信徒に全幅の信頼を置き、主に仕える者に心を開いてくれるようにと願ったのです。働き人が信徒を信頼し、信徒が働き人を信頼すること、それが教会を良くする秘訣です。互いを信頼するなら、そこに一致が生まれます。教会は主イエスの御身体であり、信徒は各器官です。一人ひとりが悔い改める必要があるのです。悔い改めができる人とは、自分の罪を悲しみ、方向転換できる人です。そうすれば神に対する熱心な思いが与えられ、周囲に慰めをもたらすことができるようになります。コリントではパウロに反発した者もいましたが、悔い改めた一部の人たちによって教会が変わりました。イエス様から目を離さないでいるなら、神からくる知恵が豊かに与えられ、いかなる問題にも解決の道が示されるのです。
(2020.6.28)

 

主の御翼の下に身を避ける/渡邊ミドリ師
詩篇91篇4節、申命記32章10~12節
 私たちはこの地上で、優しくあたたかな主の御翼の下にあります。主は荒野のようなこの世で孤独と悲しみの中にあった私たちを見つけ、抱き、世話をし、大切に守ってくださったのです。このような平安と安全の約束が与えられているのはどのような人でしょうか。それは十字架の下に来た者、すなわち主イエス・キリストを心から信じ、従う人です。親鷲は眠っている雛を起こし、しっかり飛べるよう教育します。危ない時には背に乗せて、安全な場所に連れて行ってくれます。雛にとっては苦しい訓練ですが、かわいがるだけでは雛は死んでしまいます。私たちも、自分の子を本当に愛するなら、自分だけでなく子をも主の守りの御翼の内に導く必要があるのです。私たちの父である主の命令と掟と定めを守り行い、主の道をまっすぐに歩む時、罪と死の法則から完全に開放され、安心して憩うことができるのです。
(2020.6.21 父の日礼拝)

 

聖い生活の勧め──信仰の境界線/渡邊ミドリ師
IIコリント6章14節~7章1節
 主イエスの十字架の救いを信じた者は皆、神の民です。世の光、地の塩として聖くあらねばなりません。そのためにはまず、不信者とつり合わぬくびきを共につけないことです。それはノンクリスチャンと交わってはいけないという意味ではありません。罪に妥協してはならないということです。この世的な交流に深入りしすぎると、だんだん福音を伝えられないような関係になってしまう危険性があります。神の民の世界観は、この地のものとは違います。ですからクリスチャンは塩のような役割をし、世にイエス様の味をもたらしていくのです。そして相手がはなはだしく偶像の汚れに染まり切っている場合は、彼らの中から出て行って、分離しなければなりません。クリスチャンの生き方の中心は、聖くあるとことです。それは神のご性質が聖いからです。身を引き締め、聖い生活のあり方を守っていくなら、神は私たちを、ご自身の息子、娘としてくださるのです。
(2020.6.14)

 

神の時──今は恵みの時、救いの日です/渡邊ミドリ師
IIコリント6章1~13節
 パウロが「今は恵みの時、救いの日です」と言ったのは、彼が絶好調の時ではありません。それどころか、大変な迫害の中にある時でした。そのような暗い時こそ、私たちがすべきことを教えられる時であり、神の時です。私たちにいま必要なのは忍耐なのです。コリントの教会には主イエスの十字架を知って救われた人が大勢いましたが、その恵みを見失った人もたくさん出てきていました。それは、教会の中に偽預言者・偽教師が入ってきたからです。サタンの性質は偽りであり、一番の攻撃対象とするのは、教会とクリスチャンです。しかし、たとえ多くの誘惑があっても、クリスチャンには聖霊内住の特質があります。主イエスを自分の身近に、全世界に向かって証ししていくのが、私たちに与えられた使命なのです。神が与えられた武器である真理の御言葉と神の御力を活用しましょう。それが用いられる時、頑なな人の心さえも開かれるのです。
(2020.6.7)

 

聖霊の来られた日/渡邊ミドリ師
使徒1章8節、2章1~4節
 主イエスは昇天前、信仰者たちに聖霊を授けることを約束されました。ペンテコステはその御言葉の成就です。五旬節に集っていた者たちは、突然素晴らしい神の栄光に包まれ、一斉に聖霊降臨の体験をしたのです。主イエスは、信じるすべての人に聖霊を注いでくださいます。聖霊によってご自身の臨在を現し、私たちの罪や汚れを焼き尽くし、聖めてくださるのです。しかし私たちは、ただそれに甘んじているだけではなりません。聖霊の力を受けた者がまずすべきことは、キリストの証人となることです。主イエスは御霊を授ける約束と同時に、地の果てまで主の証人となり、福音を宣べ伝えることを託されました(1:8)。これは働き人だけでなく、私たちクリスチャンすべてへの命令です。私たちには地上で見えない敵との戦いがあります。しかし、それに勝利する祈りの力、御霊の力をもいただいているのだという確信をしっかりと持って歩みましょう。
(2020.5.31 ペンテコステ礼拝)

 

新しく造られた者/渡邊ミドリ師
IIコリント5章11~21節
 人は誰しも、思い出したくないような罪があります。私たちもかつては、何事も人間的な標準で判断して罪の中を生きていました。しかし、十字架の救いと復活の希望を信じた時、私たちの内から古いものは過ぎ去り、新しい者とされました。そして、キリストの使節となったのです。私たちは神の子であるという証印を押されています。この地上において、主の御国のための良い大使となることを目指さなければなりません。自分の行動に気を付け、いつも主の栄光に傷をつけることのないよう慎重に行動する責任があるのです。神のために成すことは、どんなに小さなことでも必ず主が見ていてくださいます。いずれ来る裁きの日には、御前に立ち、善であれ悪であれ、その行いに応じて報いを受けます。いつも主への恐れを持つことが大切です。神の教えの前に謙虚に、従順でありましょう。そうすれば、私たちの道は開けていくのです。
(2020.5.24)

 

あなたは何を見ていますか/渡邊真太郎師
マタイ6章22、23節
 聖書の中で神は、人に大きなヴィジョンを示される時「あなたは何を見ているのか」と問いかけます。それは私たちへの問いでもあります。人はとかく否定的な情報に目を向けがちです。愚かな者は、目を地の果てに注ぎます(箴言17:24)。しかし様々なことについてインターネットの隅々まで調べても、主の素晴らしいご計画、主が私たちに望むことを知ることはできません。知恵ある方である主に目を向けることを、何においても優先しましょう。人は見るものに支配されます。サタンは私たちの目を地の果てに注がせようとします。毒となるものを見続けるなら、私たちの全身は暗くなり、悪いものを宝としてもたらすようになります(マタイ12:35)。主の御手の中にある風景を見続けてください。そうすれば、私たちの存在は健全で明るいものとなります。主は私たちを輝かせたいと願っておられます。自分自身とその目を輝かせるものに目を向けましょう。
(2020.5.17)

 

母の祈りに育まれて/渡邊ミドリ師
I歴代誌4章9~10節
 ヤベツは聖書中、系図の中のわずか2節にしか出てきませんが、この祈りは非常に有名です。ヤベツという名は、苦しみ、悲しみという意味です。ヤベツの母は彼を産む時に、大きな苦しみ、心の痛みを味わいました。そのような中で産まれた子であれば、母はその子の人生について、守りと祝福を求め続けたに違いありません。彼の信仰は、その母から継承されたものだったのではないでしょうか。サタンは弱い者である子どもを攻撃し利用します。子どもを守るには、御言葉とあつい祈りが不可欠なのです。御心にかなった願いを粘り強く祈り続けるなら、必ず勝利が与えられます。ヤベツの祈りは一見わがままなようですが、神の国とその義とをまず第一にするなら、祝福を願い、災いからの守りを求めるのは大切なことです。私たちも祈りの人となり、子どもたちにその信仰を示し、麗しい花輪、首飾りをもたらしましょう(箴言1:8,9)。
(2020.5.10 母の日礼拝)

 

その日が来る!/渡邊ミドリ師
マラキ3章16節~4章6節
 試練多い日々の中で私たちが目を留めるべきは、いずれ「その日」が来るということです。その日とは、主が事を行う日であり、人が正しい人と悪者の2つのグループに分けられる日です。正しい人として選ばれるのは、主に従い、御名を尊ぶ敬虔な者たちです。彼らは少数ですが、互いに励まし合い、「その日」が来るという信仰に堅く立ち、一致した信仰で成すべきことを語り合います。実生活の中でも主の御言葉を実行します。主は彼らに御心を留め、彼らによって事を成していかれるのです。そしてご自分の記憶の書に、私たちがすることすべてを記してくださいます。私たちが成すことは決して無駄ではないのです。主に従わない者は、たとえ地上で良い思いをしていても、その日が来れば裁かれます。しかし最後まで主に従い通す者には義の太陽が上り、主イエスが御翼によって覆ってくださいます。私たちにとって「その日」は希望なのです。
(2020.5.3)

 

まだ見ぬ未来を確信する/渡邊真太郎師
エレミヤ29章10~12節
 民の悔い改めを求め訴え続けてきたエレミヤは、ついに栄光のエルサレムが滅ぼされ、バビロン捕囚とされるのを目の当たりにしていました。しかし想像を絶する絶望と悲しみの中にあっても、彼は主の召命と使命を捨て去りませんでした。苦難の向こう側にある神の壮大なご計画を見ていたのです。最悪の状況で私たちが見つめるべきものは、素晴らしい未来が主から約束されているという事実です。私たちが一番握るべき情報は、神のご計画なのです。悪い情報を恐れず、主に信頼し、ゆるがないことです(詩篇112:7)。主イエスの復活により、死はもはや恐れる対象ではなく、栄光の財産への入口に過ぎなくなりました。それは究極の輝ける未来、信仰の礎です。今の苦しみは、その栄光に比べれば取るに足りないものなのです(ローマ8:18)。その確信を持って進んで行きましょう。そうすれば、今この場所・状況で成すべき使命、召命が見えてくるはずです。
(2020.4.26 35周年記念礼拝)

 

キリスト者の備え/渡邊ミドリ師
マタイ24章1~14節
 ここでは主イエスご自身が、クリスチャンが終末に向けてどのように備えるべきかを直接教えています。終わりの日には、人類の歴史の中に、神ご自身が関わって来られます。主イエスが新しい時代となる働きを始められるのです。それが再創造の始めです。いよいよ再臨が近づくと、霊の力を感じられるようになるほど主イエスご自身が近くなっていくのです。しかしその時には悪いことをする者が目を覚まします。キリストを名乗る者が大勢現れ、偽りが横行し、疫病、地震、飢饉、戦いなど、様々な苦難があります。それは信仰が一番試みられる時です。人に惑わされてはなりません。どのようなことがあろうとも、気を付けて、慌てることなく、一致して祈りましょう。終わりの日まで、伝道の手をゆるめてはなりません。最後まで忍耐するなら、私たちは一斉に携挙され、主イエスと共に御国のテーブルに着くことができるのです。
(2020.4.19)

 

~主の復活の時~二人の信仰/渡邊ミドリ師
ルカ24章13~35節
 エマオ途上にある二人は、救世主だと確信していたイエス様の十字架の死に驚き絶望し、また復活の噂に混乱していました。彼らは救世主を待ち望み、死と復活の預言を知っていながら、間違ったメシア観を持ち、それに固執していました。救い主はユダヤ人だけを選び、異邦人のことは何も考えていないと思っていたのです。神が望まれることは、御言葉をしっかりと聞き、それに全幅の信頼を置き、自分の考えではなく御言葉を信じる謙虚さを持つことです。すべてのことを聖書全体から学びましょう。そうするなら、必ず心が燃えます。彼らも聖書の話を聞くにつれ、霊の動きを内に感じ、前とは変わっていったのです。私たちにはこれから地上で戦いがあります。ちょっとしたことで動じることなく、すべてを受け止め、自分の信仰に勝利しなければなりません。彼らへの教えを自分のものとし、いつも目を開かれ、主と共にありたいと思います。
(2020.4.12 復活祭)

 

最善の保障とは/渡邊ミドリ師
イザヤ30章15~21節
 私たちに最善の保障をお与えくださる方は、天地万物を創られた全能の主です。主が示された道を選ぶことこそが最も安全なのです。しかし私たちは、神様の愛と御力に信頼せず、自分の考えを優先して事を治めようとすることが多々あります。それ故に混乱し、失敗、挫折に至り、万策尽きてから初めて、神に拠り頼むのです。しかしそんな私たちをも、主はあわれんでくださいます。立ち返って静かにすれば救われ、落ち着いて信頼すれば力を得るのです(15節)。私たちを恵もうと待っていてくださる主に、最善の助けを求めましょう。どのように、何を選択すれば良いかわからない時も、主は必ず正しい道へと導いてくださいます。御声に従って歩む時、私たちに失敗はないのです。この特権を感謝し、どんな時でも動揺し立ち騒ぐことなく、クリスチャンとして相応しい霊的な品性と信仰を持ち続けましょう。
(2020.4.5)

 

このすばらしい奥義
ローマ11章25~36節
 主の奥義は人間の知恵を超えています。選民イスラエルは神に背きましたが、それによって絶たれることはありませんでした。むしろ主はその不従順をも逆手に取り、全人類の救済の業を展開されたのです。私たちは異邦人でしたが、主イエスを救い主と告白したその時から、アブラハム契約に入れていただき、神の子としての特権に預かり、祝福を受け継ぐ者としていただきました。このような計り知れない完全なご計画を持っておられる主に、私たちはただひれ伏し、御心が地でも行われるよう祈らなければなりません。神の賜物と召命は変わることはありません。すべてが変わる世の中でも、いつまでも変わらない、動かないもの、それが神の愛であり、神の救いの約束なのです。正しい信仰生活とは、いつも主を見上げ、神に信頼し、すべてを委ねるところから始まります。私たちは現在与えられている道を、感謝と賛美をもって共にしっかり歩んでいきましょう。
(2020.3.29)

 

永遠の住まい/渡邊ミドリ師
IIコリント4章16節~5章10節
 人は生きている間は様々な問題に直面します。しかしクリスチャンには、人生の目的地があります。それは永遠の住まいである天の御国です。私たちの国籍は天にあります。地上の一時的な住まいに翻弄されることはないのです。御霊の保証をいただいている私たちクリスチャンは、何も恐れる必要がありません。御霊は、私たちが目に見えるものと目に見えないものとの世界をどう生きるかをその都度示してくださいます。そして、私たちがどれだけ主のために仕えてきたか、その信仰に応じて報いを与えてくださるのです。私たちの肉体はもろく衰えていきます。老いや死は人類の罪の結果です。しかし、霊は日々新しくされていくのです。私たちは今ある苦難に集中しがちですが、それはいずれ永遠の栄光をもたらすのです。この終わりの世にあって、私たちは日々霊的な油を用意し、御国に凱旋できる信仰が与えられるよう祈り求めましょう。
(2020.3.22)

 

備える時です/渡邊ミドリ師
Iペテロ4章12~19節
 この手紙はペテロの晩年、皇帝ネロのクリスチャン迫害による大変な戦いの中で書かれました。世の終わりにある私たちにも、見えない敵と戦わなければならない時があります。私たちクリスチャンは、御国に帰るまで、地上での使命があり、訓練を受けなければならないのです。今ある苦しみは、災難ではなく試練なのだということをはっきりと知りましょう。さばきは神の家から始まります(17節)。教会はふるいにかけられ、本物と偽物に選別されるのです。しかし私たちには、見えない協力者もまた存在します。それは主から遣わされた御使いと、助け主である聖霊です。右往左往せず、油断することなく、すべてを主にお委ねしましょう。自分の考えを優先してはなりません。そうすれば主が必ず守り、勝利へと導いてくださいます。試練をくぐり抜ければ、やがて素晴らしい主の栄光と臨在の中で喜びおどることができるのです。
(2020.3.15)

 

主の御翼の下に身を避ける/渡邊ミドリ師
詩篇91篇1~16節
 聖書には、終わりの日の様々な前兆の一つとして疫病が起こるとはっきり記されています(ルカ21:11)。クリスチャンにも災害は降りかかります。そのような時、私たちが目を留めるべきなのはこの箇所です。私たちが拠り頼む方は、いと高き方、全能者であられる主です。そして私たちがご自身を、わが神と呼ぶことを喜んでくださる方なのです。神が約束された安全を信じましょう。主が私たちに御目を向け、耳を傾け、すべての事態を知って解決に導いてくださいます。主は私たちの生活にいつも介入してくださいます。ここで繰り返し出てくる「あなた」とは、私たち自身です。これは恐れ、不安、苦しみの時、どのようにすれば良いかわからない時に、御翼の下に保護してくださるという約束です。主が一人ひとりの信仰を見て、私たちを助け、高く上げ、長いいのちをお与えくださいます。この素晴らしい祝福のメッセージを信じ、今ある状況を乗り越えましょう。
(2020.3.8)

 

主イエスの死と主イエスのいのち/渡邊ミドリ師
IIコリント4章7~18節
 終わりの日は近づいています。この地上では、天変地異、飢饉、疫病など、思いもつかないような状況に見舞われることがあります。アダムとエバが罪を犯した瞬間から、全世界全宇宙は傷つき汚れ、罪あるものとなりました。土の器にしか過ぎない人間にはそれをどうすることもできません。しかしクリスチャンには土の器の中にある光があります。私たちの中には、二つのものが備えられているのです。それは、主イエスの十字架の死による救いと、主イエスによって与えられた永遠のいのちという希望です。その光によって、私たちは何があっても動じない、キリストの証人となることができるのです。そしてどんなに粗末な器でも、素晴らしい光を放つ貴重なものとなるのです。私たちは、いかなることに脅かされても、パニックになることなく、新しいいのちの扉を目指して地上の旅路を歩んで行きましょう。
(2020.3.1)

 

まず第一に愛する対象は?/渡邊真太郎師
マタイ22章37~40節
 神を愛することと隣人をに愛することは、大宣教命令(マタイ28:19-20)と並び、主が示された最も大きな命令です。しかし人間の愛は持続し難くもろいものです。私たちの心を奪う者は誰でしょうか。私たちが第一の愛の対象とすべき方は主なる神です。他のものを優先するなら、主との関係は崩壊し、断絶が起こります。主を第一に愛することにより、示されることが三つあります。一つは他者の愛し方です。私たちは隣人を愛することを実践するために、今ある場所に置かれているのです。主が愛を注ぐべき存在を必ず示してくださいます。二つ目は、私たちの変えるべき部分です。相手を変えることではなくあなた自身をより素晴らしく変えることが主の御心なのです。三つ目は、主が私たちの周りの人をどう見ているかです。私たちが愛し難い人をも、主は愛しておられるのです。主を何よりも優先した時、私たちが神の愛を現す器へと変えられることを確信しましょう。
(2020.2.23)

 

真理が見える人、見えない人/渡邊ミドリ師
IIコリント4章1~6節
 私たちクリスチャンの特権は、今まで見えなかったものが見えるようになったことです。しかしその真理が見えない人は大勢います。福音の光はいまも私たちを照らしていますが、その光を妨げる存在があるということを、はっきりと認識しましょう。サタンは十字架により敗北しましたが、主イエスの再臨まではこの世に君臨しているのです。私たちには、真理を曲げずに語る勇気が必要なのです。主がその勇気を与えてくださいます。私たちが公明正大に真理を伝えようとするなら、創造主なる主の御光がその言葉をも照らし、相手の心を変えてくださるのです。自分自身のことを語るのではなく、主イエスとその福音を宣べ伝えましょう。何も心配する必要はありません。言葉と知恵は主から来るのです(ルカ21:15)。私たちは万人祭司、万人伝道者であることを忘れてはなりません。たとえ困難な状況にあっても、主が共にいて光を当ててくださるという確信の中で、信仰をもって歩みましょう。
(2020.2.16)

 

神の栄光と人の栄光/渡邊ミドリ師
IIコリント3章7~18節
 神に直接お会いしたモーセの顔は、光を放ちました(出エジプト34:32-35)。しかしこれは神から与えられた、人の栄光です。その輝きはいつかは消えます。律法は人間の罪を示すことはできますが、人間を正し、変えることはできません。人の心にはモーセの顔と同様、覆いがかかっているため、鈍く、御言葉を理解することができないからです。イスラエルの民は紅海が割れるという信じ難いような奇蹟を目撃したにも関わらず、ヨシュアとカレブ以外、皆、約束の地に入ることなく滅びたのです。しかし、御霊は人を変えることができます。私たちの不信仰は主イエスによってしか取り除かれません。私たちが主イエスを受け入れるなら、主の栄光を反映させる永続的な輝きを持つことができるのです。そして、主と同じかたちへと変えられて行くのです、模範である主イエスの教えは、聖であること、謙遜であることです。希望をもって、それに従いましょう。
(2020.2.9)

 

神がくださる資格/渡邊ミドリ師
IIコリント3章1~6節
 コリントの多くの人々は、パウロの第一の手紙によって不品行を悔い改めました。しかしまだそれに反発し、パウロには使徒の資格がないと批判する者たちもいたのです。それに対しパウロは、自分が導き改心させたコリント教会の信徒たちこそ、資格の証明であると反論しました。救いは御霊の働きであり主の御業です。たとえ人からの推薦状があったとしても、そこで誰も改心せず救われなかったら意味がありません。資格というのは人からではなく神から来ます。神ご自身が推薦状を送ってくださっているのです。パウロの働きの成功は神が達成してくださったものであり、反発している人たちこそがその目撃者なのです。私たちが何かの働きを成す時も、力となって背後から押し出してくださるのは神ご自身です。そして、古い契約である律法ではなく、新しい契約、主イエスによる恵みによって、永遠のいのちに至る資格をも与えられていることを覚えましょう。
(2020.2.2)

 

本物と偽物の福音/渡邊ミドリ師
IIコリント2章12~17節
 本物のある所には必ず偽物があります。本物のクリスチャンのいる所にも、偽者が入ってくるのです。いいかげんな信仰では惑わされてしまいます。私たちは偽物を見抜く力を持つ必要があるのです。本物のクリスチャンとはどんな人でしょうか。それは、どんな時にも感謝をする人です。パウロはどんな試練の中にあっても神に感謝し(2:14)、そのようにすることを勧めていました(Iテサロニケ5:18)。感謝と賛美にはサタンの攻撃を退ける力があるのです。苦難があっても、感謝することができるよう主に求めましょう。そうすれば主は豊かに働いてくださり、あなたを励まし整え、必ず悪いと見えることを良いものへと変えてくださいます。本物のクリスチャンは、キリストの勝利の行列に加わることができます。勝利の行進とは、再臨・携挙です。私たちが一人としてそこから外れることがないよう、日々主に従い、その時に備えましょう。
(2020.1.26)

 

主に赦されたこと、人を赦すこと/渡邊ミドリ師
IIコリント2章5~11節
 神がクリスチャン一人ひとりに求めているものは何でしょうか。それは人を赦すことです。非常に困難と思えることですが、十字架の道が用意されている人たちを、私たちが裁いてはなりません。悪は悪として処罰すべきです。しかし悔い改めたなら、神の愛と義をもって、慰め導かなければなりません。赦せないでいると、サタンの策略に陥ってしまいます。赦さない心はサタンを喜ばせ、その人を破滅へと向かわせます。主イエスが全人類の罪のために十字架の道を歩まれたことを絶対に忘れてはなりません。それ故に私たちは罪赦されたのです。その経験に立てば、人を赦すことはできるのです。主が赦してくださったように、私たちも赦しましょう。そうしないのなら、主もあなたをお赦しになりません(マタイ6:14-15)。赦し難い人を赦した私たちには、永遠のいのちを与えるという主の約束が備えられているのです。
(2020.1.19)

 

神に栄光を帰する/渡邊ミドリ師
IIコリント1章12節~2章4節
 人は何のために生きるのでしょうか。神の栄光を現すためです。私たちもそれを目標としましょう。神の国とその義とをまず第一として生きるなら、主はすべての道を開いてくださるのです。コリントの教会では、ユダヤ主義の人たちがパウロには使徒としての資格がないと言って攻撃していました。パウロは悩み苦しんでいる人には深い愛と優しさを持っていましたが、福音を妨げる者には大変厳しく、断固として反論しました。私たちもこの世においてクリスチャンだというだけで不当な扱いをうけたり、問題にぶつかる時があります。そんな時は、聖さと神から来る誠実さで対応しましょう。神ご自身が私たちの証人なのです。パウロに倣い、人を恐れず妥協せず、主にあってYES、NOをはっきりと答えられるようにしましょう。そうすれば、内に住まわれる聖霊様によって、必ず助けられ、道を示していただくことができるのです。
(2020.1.12)

 

神(主イエス)と神の民(クリスチャン)/渡邊ミドリ師
イザヤ40章3節、57章14~21節
 ここには神の3つの属性があります(57:15)。いと高くあがめられる方。永遠の住まいに住まれる方。聖ととなえられる方。このようなお方が、私たちのうちに迫り、私たちを導いてくださっているのです。この方が私たちに望まれることは、荒野に呼ばわる者の声(40:3)となることです。バプテスマのヨハネは救い主が来られることを告げましたが、終わりの時にある私たちは、再臨の裁き主が来られることを伝えるのです。主の道を整えるためには、まず私たち自身の中からつまずきとなるものをすべて取り除き、主に相応しい、聖なるものとならなければなりません。主はどんなに高くにあられても、へりくだる者に耳を傾けてくださいます。そして必ず癒しと平安を与え(57:18-19)、ご自分の住まいへと導き、主を「永遠の父」(9:6)と呼ぶ特権をお与えくださるのです。その素晴らしい特権を宣べ伝える者となりましょう。
(2020.1.5)

 

自分の使命を見つめる/渡邊真太郎師
エレミヤ1章4~6節、11~12節
 あなたは何を見ているのか──この問いかけを主は、エレミヤ以外の預言者たちにも語られています。エレミヤはまず自分の弱さを見ました。しかしたとえ経験・知識がなく、相応しくもなく、自分にはとてもできないと感じても、主は一人ひとりにその使命を語り掛けておられます。自分の不完全さを見るのではなく、主の完全な計画を見る者になりましょう。人の言葉に確信を置くのではなく、主が見せてくださったものに確信を置くのです。主は決してあなたに与えられた道、救い、導き、召命を取り消されることはありません。救われた時、洗礼を受けた時、人生の節目節目にあなたは何を見ていましたか。その風景を自分のものにしましょう。そうすれば次にまた必ず、これを見よとあなたを動かす主の御手が、促しがあるはずです。主が私たちに託してくださった、福音を示す者になる、というスタートを一緒にしましょう。
(2020.1.1 元日礼拝)

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